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好きで始めたものでも、もうイヤが三度ぐらいある

 昨晩、藤岡邦治さんのお家の月毎の宅祭、おかげを蒙らしてもろたんですけど。娘さんの藤岡あすかちゃん。高校二年生です。この子のことで話しをさしてもらう。
 もちろん小さい時から参拝のおかげを蒙って家族勢信心さしてもろうてる。高校に入って嬉しい、嬉しいということで、無事高校入学出来た。そして、運動クラブに入るいうことで、バスケットボール部に入らしてもろうた。それで、バスケ部に入りまして、一生懸命に練習してる。ところが、なんでもそうで、私も経験あるんですけど、始め五十人程入ってても、やはり練習が厳しい。そうしてくると、一人減り、二人減りして、大体、一学期終わる時分には、半数になってる。
 それで、次に一年生終わる時分、一年で入部した五十人の内、十人残りませんなあ。一割の五人ぐらいしか残ってない。案の定、この、あすかちゃんも、一生懸命のがんばり家なんですけど、一生懸命がんばって、一年終わって、二年の始めになったら、イヤになってしもうた。イヤになってしもうて退部する。というような案配だったんですけど。
 お取次を頂き、ここは有り難いですね。そんな時は必ず、キチッとお取次をお頂く。お取次を頂きに来たので、まあ、色々辞めたい理由。なんで辞めたいかの理由、色々に言いますわな。そして彼女に「解った、解った」と。
 「あんな先輩がいてるから、イヤや、コーチの先生がイヤや、誰々がイヤや、イヤや、イヤや、イヤや…」言う案配。
 そして、彼女に
 「イヤや。したないな。しかしなあ、バスケット部いうたら、団体競技やろ。団体競技で一年間練習してきて、これから二年になって一番中堅にならないかん、あんたやな。クラブのチームにとったら、二年生が、一番中堅になっていかないかん。あんた、自分のことだけで『イヤや、イヤや』言うてるけれども、チーム全体から見たら、あんた欠けてきたら、どないするんや。あんた、自分の個人のところだけで、『イヤや、イヤや、イヤや』言うてる。チーム全体のこと考えてるか。イヤやけども、出てみい。神様にお願いしてな、イヤやけれども、チーム全体のことを考えて、クラブすぐ辞めんと、もうちょっと辛抱してみい」
 いうことを言うた。まあ、どうにかこうにか、退部せんとすんだ。もうそのことも彼女コロッと忘れてしもうて…。


 実は今秋ですね。スポーツの季節です。大阪には運動クラブの勝ち抜き戦があって、その次にそれを勝ち抜くと、大阪市の市立大会いうのがあって、勝ち抜いてきたチームが大阪で一番、二番と競う大会があるの。この市立大会が明日や言うてましたな。各校区、各地区の高校で勝ち抜き戦があった。二十三日、こないだの御霊祭りの日にあった。
 「先生、御用したいんやけど、お参りしたいんやけど、地区の最後の決勝戦があります。行きたいと思うんですけど…。」
 「かめへん。行っといで。がんばっといで」いうことで、頑張らしてもうた。
 
 勝った!
 
 ちょうど、昨日宅祭で、
 「先生勝ってん。良かったわ」もうルンルンや、生き生きしてる。
 「良かったなあ。勝てたか」
 「勝った。次、市立大会や」
 「そうやな、がんばらな」
 「そやけどな強豪ばかり集まってくるから、とても無理やー。そやけど、一生懸命にやるわ。みんなやる気出してるわ」
 「良かった、良かった」
 で、そこで彼女に言うた。
 「あんた、今年の春どう言うたか覚えてるか。もう、イヤや、もう辞めるわ言うたん違うん」
 「あっ、そうやった」
 「やってて良かったやろう」
 「良かった」
 「あの時、ものすごく辞める理由付けてたな。『あれがイヤや、これがあかんねん。こんなん辞めてまうねん』言うてたな。」
 「言うてた」
 どんなこと言うてた。
 「忘れてもうた」
 「しかし、解るわ…」
 同じくクラブの子が辞めたい言う子がいてるの。
 「もう、ぐちゅぐちゅ、ぐちゅぐちゅ言うてるわ」
 「きっと、あないに言うてたんやろうな」
 「そうや、あない言うててん」
 「そうやな」それで、あすかちゃんは辞めるの止まったけど、二年生になって辞めた子がいてるんやな。その辞めた子も二十三日に応援に来てくれた。
 「『しもうた。クラブにいといたら良かった。そのまま続けといたら良かった』言うて…。」
 「見てみい、あすか。後悔せんで良かったなあ。後悔せんで良かったなあ。それで、今辞めたいブツブツ言うてる子いてるやろう」
 「言うてる。『何言うてるんやこの子』と思う」
 「そやけど、あんたな、春にそない言うててんで…」
 「そうやと思うわ…」


 と言うことで、次に、家族中に話をしたんですけど、
 「そうや、始めは誰でも、自分でクラブに入りたいと思うて、自ら申し込んで入る。これは、クラブだけの話し違うの。結婚でもそうやし、就職でもそうやし、学校の勉強でもそうやし、この大学入りたいとか、あるいはこの会社へ入りたいとか、誰々さんと結婚したいやとか、この仕事をしたいやとか。あるいは、信心も同じこと、信心さしてもらいたいと。自ら進んでやってもそうやな。やってる内に、三回ぐらい『もう、イヤ』言うときがある。結婚でもそうや。『もうこの人とイヤ』いうのが大体、人生に三回ぐらいある。クラブでもそうや」
 「そう、あった」
 「これから、また上の大学行っても、もうイヤいうのがある。結婚しても、もうイヤ。就職しても、もうイヤ。さあ、その時が勝負どころやな。そこで、辛抱さしてもらえるかどうかによって、その人の人生が決まってくるな。あんたは、あの時にクラブで言えば、春に「もうイヤ」と思たんやけども、お教会来て、お取次頂いて、イヤでも、もう一辺さしてもらうかという気になって、今日の喜びがあるな。あんたこれからまだ、人生色々やっていかなならん。自ら進んで、『ああもしたい。こうもしたい。自ら進んで、ああもしたい、こうもしたい』と思うてしても、もうイヤという大きな山が二、三度必ずあるんやで。その時に辛抱しきらしてもらえるか。あるいはイヤで、プッツン切れてしまうか。それによってその人の人生が違うてくる。」
 「そう、イヤな時には、理屈言うの上手やな。イヤな理由をドッドッ、ドッドッと言うな」
 「言います」
 「今、友達の話し聞いていたらどう思う」
 「結局、根性なんいんのやろうな」
 「クラブで言えば、辛い練習イヤやねんやろうな」
 「そうや、そうや」
 「辛い練習イヤな理由を、ああじゃ、こうじゃと言うのやろうな」
 「そうやと思うわ。私もそうやったかわからんわ」。
 しかし、あなたはな。教会があってお取次が頂けて、そして止まることが出来た。辛抱することが出来て、今の喜びがあるんやな。誰でもイヤなもんはイヤ。そこでプッツン切れてしまうねん。


 信心も同じことで、自分でさしてもらおう思うてしてる。その中にも「信心もうイヤや。もうしんどい。教会なんてイヤや」。その時に言うてる言葉は、直接私によう言わへんけれども、「ああ言うてはる、こう言うてはる」と全部耳に入ってくるの。「はあ、あー」と思う。ブツブツ言うてもええから、それでもええ、続けたら、おかげ蒙るんやけれども、そこでプッツン切れてしまう。
 そうしてくると、結婚やら、仕事やら、そのクラブなんかは、教会にお取次頂いて、そこをかろうじて乗り越えさしてもらうけども。信心で「もうイヤや、もうしんどい、なんじゃ、こんなんやったら、行くの止めじゃ」ということになったら、何処へお取次頂くの。
 それで「クラブでもそうやろう。イヤな者ばかり集まって文句言うやろう」
 「言うわ」
 愚痴不足ばかり言うのは、愚痴不足言うのばっかり、集まってくるやろう。それで、ブツブツ言うてる。信心もそうやねん。愚痴不足ばっかり、集まってブツブツやる。ほんなら、そのブツブツをおかげを蒙っていかないかんのに、そのお取次が頂けんようになってきたら、その人生が終わり。
 その他のことやったら、お取次を頂けて、耐えていけたり、しのがさせて頂けたり、また神様のお力を頂いて、それを乗り越えさしてもろうていくが、一番大元のところで、ブツブツが出て「もうイヤや」いうことで止めてしもうたら、その人の人生は、気の毒な人生になってしまうのね。
 信心でも二、三回あるで、長年信心してても、「もうイヤや。行くのイヤや。もう教会なんてイヤや」と。その時のブツブツ、愚痴不足は、一生を左右してしまうんです。ブツブツ言うてても、来てりゃ、それを乗り越えさしてもらうけれどもね。好いた、はれた言うて一緒になっても、結婚でも三回ぐらいは、もうイヤ。私の人生こんな人と、一緒に行くのイヤちゅうのが、必ずある。それを辛抱していく。


 そうして、面白かったのが、親夫婦もその話し聞いて「ほんとやで、ほんとやで。私も…。」「言うな、言うな」言うてな。
 「オイ、オイ、今、おとなしいなってんの、またぶり返すな」言うて。
 「ほんまやで、おかあちゃん、もうこんな人イヤや言うの、三度ぐらいあるんやで…」
 「ほんなこと、今、言うな。ぶり返さんでもええわ」
 言うて大笑いしたんですけど、自分でこうしたい、思うても。もうイヤが三度ぐらいある。それを辛抱して乗り越えさしてもらうお力を頂き、あるいは、道筋を頂かんとあきません。お取次頂いてたら、それを乗り越えさしてもらえるんやけれども、肝心のお取次頂くことが、「もうイヤ」になったら、これどうしょうもない。
 これをお釈迦さんは「縁無き衆は度し難し」助け難いとおっしゃっています。
 教祖様は「不信心者ほど神はかわいい。また時節を待っておかげを受けてくれ」しかし、これはなかなか出来ません。教会を十人飛び出して、一人よう帰ってきませんな。その後、追跡調査までしてないんやけども、一生ブツブツの人生送っておられますな。お気の毒なことですな。
 教会はちょっと薄情かも知らんけれども、そこの家行って連れ戻すというようなこと、絶対いたしません。それぞれの人生があるから。ちょっと私考えないかんな思うんですけど、何とか手なかろうか、なんとか考えるんやけども…。
 そこをお釈迦さんは「縁無き衆は度し難し」このように仰せでありますけれども、しかし、天地の親神様は、そんな人にも「どうぞおかげを受けてくれ」また「時節を待っておかげを受けてくれ」と願ごうていっておられる、大きな大きな神様であられます。私も大きな大きな神様にならしてもらたい思うんですけど、もうちょっと、なんか工夫せないかんなと思とります。有り難うございました。

(平成十年九月二十五日)


金光大神の取次を持って願え

 願う心は神に届くものである。天地金乃神は、くもが糸を世界中に張ったのと同じことである。糸にとんぼがかかればびりびりと動いて、くもが出て来る。神も同じことで、空気の中にずっと神の道がついているから、どれほど離れていても、拝めばそれが神に届く。(『天地は語る』二一)

 今日頂きました御理解の「くもの糸」の話しをして頂きました。「願う心は神に届くものである。天地金乃神は、くもが糸を世界中に張ったのと同じことである」このように仰せになる。
 私、日々の御祈念で、天地の親神様というたら漠然としてるでしょう。なかなか解りにくい。私は天地の大宇宙の神様というのは、御神霊。魂、霊であると思う。
 人間は肉体があると、右へ行ったら、左へ行きませんな。同じ時間にな。ところが、これ、霊の働き、魂の働きというのは、自由自在に動いてくださる。そして、その魂が、我々のような小さな魂ではなしに、大きな大きな、天地丸生かしになさる生命の魂があるの。その魂にこちらが願うということは、別の魂ではなく、同質でなかったらいかんわな。
 物事を願うのに、こちらも頂いている魂で願わさしてもらわないかん。これが祈りというものになる。こちらの魂で祈るいうのはどういうことなの。これ難しいな。言葉で言えば、皆、魂を頂いているから、天地の親神様の大生命の大神霊様の魂と、そこから頂いている魂。これが響きおうて、先ほど言うくもの糸になるんやな。
 ところが、そこは理屈でよう解るんやけども、これがなかなか出来にくいな。実際のところどうしていいか解らん。
 そこで私は、教祖様、二代金光様、三代金光様、四代金光様は、御神勤、お取次のお徳を持たれた魂になっておられますな。完全に御霊さんやから、その魂に、お願いを申し上げてお取次頂いています。
 教祖様は「来てくれと言う所へ行ってやる」と言われるぐらいに、我々のことをお取次くだされ、また、二代金光様、三代金光様、四代金光様、また三六五日御神勤くだされて、お取次下されて、そのお姿を私たち見てますわな。見さしてもうてる。
 そのお方は形がのうなられたから、魂になっておられる。その魂のお徳を持って、天地の大生命の魂、天地の親神様の魂へお取次をお願いしてます。そして、今の金光様の御神勤のお取次と、それから初代、二代の、これも魂になっておられる、御霊徳、その御霊徳にお願いを申し上げて、「どうぞ…」と。
 そうしますと、私から直に、天地の親神様へこう向こうたかて、私なんて、生身持ってるんで、魂を頂いてるんやけども、神様に、その天地の大生命の大御神霊に響き合うかが、非常に難しいので、教祖様始め、歴代金光様、初代二代の御霊様、現教主金光様に、お取次お願い申し上げて、祈らして頂く。願わさして頂く、お届け申し上げる。そうしまするとな、ズッーと響いてくる。


 教祖様は別のみ教えで、「金光大神の取次を持って願え」と。これは、響かないかん。先ほどの「くもの糸」やないけれども、ビッビィッと響かないかん。ということとして、日々の御祈念をさしてもろうてるんでありますが、願う方がええ加減過ぎてるわな。
 願うてるのやら、願うてへんのやら。もうちょっと、うまいこといったら、忘れてしまうしな。もう願う方が、しゃんとせんな。「誰の人生や」いうことになってしまう。「誰のこっちゃねん」となってしまう。願う方が実意丁寧に願わさして頂く。事柄起こってから、大騒動起こってから願うんじゃなしに…。
 家内安全のことから、交通安全のことから、仕事のことから、学業のことから、結婚のことから、出産のことから、育児のこと、安産のこと…。もうお願いせないかんことは、山ほどあるのにお願いにならへんねんな。ほんで、大騒動起こってから、お願いするんやけども、せめてそれぐらいのお願いを、日々さして頂く。私もまた、さして頂く。
 そやから『カード(教会備え付けの祈願カード)』に書きなさいや、言うても書けへんねん。ほんとにずぼらで、なんぞ、ことが起こって「信心しててもあかんわ…」言うてな…。難儀なこっちゃ。ほんとに難儀なことやけどな。難儀な氏子ほど神はかわいいとおっしゃる。


 昨晩も、ある教会のお説教に行かしもろうて、お話終わった後、そこの教会長先生と話しさしてもろうてました。そうしたら、教会長先生も「はあ、疲れるわ」と言うておられたんですけど。
 「御用さしてもらうということは、辛抱でんな。辛抱強うせないけませんな。ただただ、辛抱ですな。」
 「ただ単に辛抱じゃなしに、神様が氏子かわいいと。『不信心ものほど神はかわいい』と。『また、時節を待っておかげを受けてくれ』と。願われている神様の思いを頂いているから、辛抱できますんやな」言うて。
 もう人間同士やたっら、「もう、イヤ。あんたと縁切りたいわ。あんなずぼらな人たちと、ちゃんとせん人たちと、得手勝手な人たちと、あんたらとはもう縁切りたいわ」と。
 人間関係やったらそこへ行ってしまうんやろうけれども…。
 そうじゃない、神様が「氏子かわいい。世間になんぼうも難儀な氏子あり」と、それを頂かしてもろうて、「終生この道の御用に、立たしめ給へと願い奉る」と学院で日々神様にお誓い申して、御用さしてもろうてる。
 「まあ、辛抱でんな」
 その先生も、「そうだんな。まだ、辛抱足りまへんな」
 「もっともっと、辛抱さしてもらわないきませんな」
 言うて笑うて、昨日も晩遅う帰ってきました。有り難うございました。

(平成十年九月二十六日)

信心の稽古は意識をし祈り念ずること

 おかげさんで、五人目の孫の眞美も四ヵ月ほどなりまして、すくすくと成長のおかげを蒙っておりますことは有り難いことです。母親である娘の浩美は、新米のお母さんで、どうなることかいなと思うたら、まあ、まあ、それなりにさせてくださるんやな。それなりには、なんとか親になる稽古をさせてもろうとる。
 そういう中で見さしてもろとりましたら、小さい子供、乳飲み子が泣く。その泣き方で「おしめや。お乳や。これは甘えとる。ちょっとこれは、眠たい」というふうに、同じオギャー、オギャーと泣くんやけれども、そのオギャー、オギャーのところでわかるんやね。私ら、あんまり解らん。母親というのは、解るの。同じオギャーで、その乳飲み子が、何を訴えておるのか。ということが解るの。「そうそう寂しいの」というようなもんじゃな。甘えてるような中でも、その中でも、ほんとに甘えとんのか、寂しがってるのか、それまでよう解るの。こっちは解らん。えらいものやな。と思わさしてもらう。


 これは常に、その幼児、子供に意識がいってるんですな。ズーッと意識がいってるので解る。もう一つ言えば、命の意識かな。命の意識が、命からの意識が、その我が子に、幼児にズーッと、二十四時間、寝てても。寝てる時に思うか言うたら、命の意識が、寝てようが、起きてようが、関わりなしに、向けられているので、命と命のつながりになるんでしょうな。そやから、同じオギャーで解らしてもらう。
 信心も同じことで、「神は声も無し。形も見えず」とこうおっしゃる。しかし、命からの意識というものは、「いつも神様、神様」と念じる。そうしてくると、神様の思し召しが解らしてもらう。「神様、神様…」と。そういう思いにならして頂く。そう念じていく。そこに祈りの一番根本があるんですね。常に念じて、念じて。「祈念」というたら、祈り、念ずるでしょう。祈り、念ずるいうたら「祈念」やな。そうすると、声も無し、形も見えずのお方なんですけど、神様が今、思うておられること。あるいは、「気を付けよ」というお知らせ。そういうことも、その中で、解らしてもらう。
 ちょうど、母親が乳幼児のその泣き声で、ほとんど解ってしまう。というようなもんやね。常に命から念じておるんでしょう。だから、あれ通じていくんですな。


 で、形で見えてるもんはどうかと、形の見えないものを解らしてもらういうことは、なかなかのこと。
 形の見えるものはどうなんやろう。これも、見える人、見えてても見えない人がある。お広前にポスターが貼ってますな。長いこと貼ってても、
 「行事はいつの、こってっか」という人がある。
 「ポスター貼ってあるが」
 「貼ってましたかな」
 見る意識を持たな、なんぼ見てても、見えない。目で見えるものでも見えない。おもしろいもんですね。
 例えば、花を見てても、「あっ、この花、水欲しがってるな」と見える人と見えない人があるわな。極端なのは、花生けてあるの解らへん人がいてる。
 「花生けてるやん」
 「どこにな」
 「あっ、ほんまやな」
 意識が無かったら、花が生けてあっても、花が見えない。見えるもの解るもので、一番良く解るのが、人間損得勘定が一番良く見えるの。自分の損得勘定が一番良く、敏感に反応しますな。損するか、得するか、いうてね。自分の損得勘定のところは、意識してますね。無意識の内に意識してます。損や得やいうことは、そっちの方ピーンとすぐ働きはります。自分中心の損得勘定はピッ、ピッ、ピッと働く。


 例えば、今日から、冷たいお茶から、温かいお茶へと、こう変わらしてもらう。温かいお茶を入れてあげる。もう意識せんと飲んでますな。ほんとんど。中には十人に一人ぐらいは、
 「温かいお茶になりましたな。はあ、段々に涼しいなりましたな」
 と言われるお方がある。これは十人に一人や。そして、
 「先生、いつもこのように、ご用意頂きまして有り難うございます」
 とお礼申せるのが百人に一人や。
 「有り難うございます」とお礼申せて、今度、
 「いつもお茶っ葉、お世話になってるな。今度、私がお茶っ葉お供えさして頂こう」
 と思えるの千人に一人や。同じお茶飲む。同じお茶を飲んでても、意識出来る人と、意識出来ない人と、お世話になってることを意識出来る人と、意識出来ない人と。言うことですね。
 神様、声も無し、形も見えずとおっしゃる。その神様、形も見えずのお方を念じていき、意識をさしてもろうていくことによって、それを解らしてもらう。逆に、目に見えるところから意識の稽古せなな、とても神様まで、いきませんな。目に見えてるところ、日々触れてるところ、日々生活してるところで、意識をする稽古をしとかんと、自己防衛本能と損得勘定だけは、ピーンと反応、意識は出来るんやけど、どうもなりませんな。
 そいう信心の稽古の大事な中に、その意識が出来る。それが無かったら、神様は解りません。皆、それ意識しだしたら、必ずそれが出来てきます。母親になったら、その赤ん坊のオギャーの泣き声で全部解る。同じオギャー、オギャー言うてるんやけども、そのオギャーが何かという、それには常に念じ意識してるからでしょうね。
 おかげおかげと言いますけども、おかげは、信心の影です。「おかげくれ、おかげくれ」と言いますけど、信心の影でありまして、そやから、信心の稽古は意識をさして頂き、祈り、念ずる稽古です。有り難うございました。

(平成十年九月二十七日)