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私おかげもらう人、あなた授ける人

 この幣切り境に肥灰(農業)さしとめるから、その分に承知してくれ。外家業はいたし、農業へ出、人が願い出、呼びに来、もどり。願いがすみ、また農へ出、またも呼びに来。農業する間もなし、来た人も待ち、両方のさしつかえに相成り。なんと家業やめてくれんか。其方四十二歳の年には、病気で医師も手を放し、心配いたし、神仏願い、おかげで全快いたし。その時死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ。
家内も後家になったと思うてくれ。後家よりまし、もの言われ相談もなり。子供連れてぼとぼと農業しおってくれ。
此方のように実意丁寧神信心いたしおる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次ぎ助けてやってくれ。神も助かり、氏子も立ち行き。氏子あっての神、神あっての氏子、末々繁盛いたし、親にかかり子にかかり、あいよかけよで立ち行き

 信心さして頂く者でも、大まかに言いますると、二種類のタイプが有ります。その一つは、「私おかげもらう人、あなた授ける人」と、もらうの専門係。もう一つは「皆がおかげを受けてもらえるように」と信心するタイプと、この二通りのタイプがありますな。
 これはね、長年信心してても、どっちかのタイプですねん。何十年信心したからいうて、「もらうタイプ」から「授けるタイプ」へいけるかいうたら、なかなかいきにくい。はあ、おもしろいもんですね。何十年信心してても、別のタイプになりにくい。
 このおかげもらうの専門タイプ、このタイプは一、生バタバタ、バタバタしてね、進歩無し。一生、愚痴不足が裏に付いてますねん。愚痴不足が裏に付いて、「これもあきませんねん。あれもあきまへんねん」と、一生愚痴不足がずっと、付いて回ってる。長年信心したら、知識だけが入るんで、神様の前では「いつも有り難うございます」と言葉では言うとる。そやけども、中身見たらいつも、愚痴不足がずっと付いて回る。一生の間、愚痴不足で終えるタイプ。
 もう一つのタイプは、おかげを授けるとまでいかんでも、「神様はどうされたら、お喜びなさるからな」と、いつも見るタイプ。質が違いますな。


 これ子供でも、大勢子供いてたら、常に親の膝ばっかりかじっていくタイプと、親に孝行していくタイプと、二通りある。理屈よう言うのは、親の膝かじってんのは、理屈よう言う。なんとか、親から取り上げないかんからね。自己防衛をするのね。自己防衛をするから、「こうやから、こうじゃないか。パッパッパッ…。」「あの兄ちゃん、前あれだけもうたやないか。そやのにもらわれへんの。うわー」やる。常に自己防衛。親の膝かじるの専門。これは理屈をよう言いますね。自己防衛がものすごく強く、論理をものすごく展開さしますね。
 もう一つの「親に何とか孝行したいな」。というのは理屈言わない方ですねん。どうしたら親が喜ぶかいなとそれを見てる。そうすると、どうしたら、親が喜ぶかいなという方の質はね、親が喜んでくれたら、自分も喜びます。喜びが倍になってきますねん。喜びが常に倍に、倍になる。いつも生きるって問題が起こってくるんやけれども、いつも穏やかな、いつも嬉しいものが出てくる。親に喜んでもろたら、うれしいなあ、というそういうものが、常にうれしいな、有り難いなあというものが心の中に満ちてくるんですね。
 そいうふうに、信心も全く同じでね。どうしたら神様に喜んでもらえるかな、という質の信心のお方と。どうしたら、おかげもらえるかいなと。もらうの専門のお方と二通りありますな。信心の長い短いじゃなしに、その人の質でしょうかね。出来るなら、その質の転換のおかげを蒙ってもらいたいな。コロッと展開のおかげをもらいたいなと思いますが、なかなか、難しいですな。しかし、それでも「くれくれ」でも親のスネかじるの専門でも、お話を聞いてるうちに、段々とその質にならしてもらっていく、と思わさしてもらう。


 今日の教祖様の立教神伝なんかは、
 「死んだと思うて欲を放して、天地金乃神を助けてくれ」と。
 教祖様は「はい」と言える。
 「死んだら困まりまんがな。ほんなもん、儲かるために信心してまんのやから」言うたらどうでしょうな。
 「何言うてまんねん。神さん、無茶苦茶言いなはんな」とこうなるわな。
 ところが、
 「はい、神様がお喜びくださるならば…」というところへ、スッーと入って行けるタイプ。後々、一番大きなおかげを頂くタイプが、こっちのタイプやわな。ほんとに魂の安らぎから、ご都合御繰り合わせから、神様がつきまとってくださいます。大難は小難、小難は無難から、ほんとに神様つきまとって、ご都合御繰り合わせ蒙りますな。
 私らでも、至らんながら十分な御用を出来ないけども、なんでこう、大変なことが起こるやけども、「先生は、先生やから上手いこといきまんねん」。先生やからじゃなしに、「どないしたら、神様喜んでくださるかな。どないしたら、皆さん助かってくれますかな」、とそっちばっかり目を向けてるから、また、自分のことは、神様がつきまとってお守りくだるし、つきまとってご都合御繰り合わせくださる。お知らせもくださる。有り難いことですな。
 「くれんか、くれんか」言うタイプは「あげるわ」でそれで終わりや。
 「あげるが、これでええんか」言うて「ふん、これで、ええねん」と取るだけ取って…。
 そうはいかん、一生、事は起こってくるよってな。常に愚痴不足ばかり言うて、一生送るタイプは理屈を言う。このタイプは自己防衛ですからね、自己防衛の人はものすごく理屈をよく言います。自分を守らないかんから。一生、難儀していかなならんタイプですな。それでも、神様はかわいい氏子じゃと。信心しておかげを受けてくれと、おっしゃっておられます。有り難うございました。

(平成十年九月二十日)


神様は働き通しにお働きくださっている

 今朝起きさしてもろうて「はあ、有り難いことやな」と思わさしてもろうたことが、一つあります。それはどういうことかと申しますと。
 今朝「眠たいな」と思うた。「もうちょっと寝たいな」と思うた。「いやいや、起きさしてもらわな」と思てゴソゴソと起きさしてもろうたんですけど、「眠たいな、十分でも寝たいな」と思うてな…。
 ふとその時「有り難いなあ」と思うた。自分みたいな、ずぼらもんね。大体私は、ずぼらもんですねん。もうほんとに、何もせんでもええ言うたら、日がな一日ゴロッとしてるような、どうもそんな、ずぼらもんであります。ほっといたら、ほんと腐ってまうような。人間も余りずぼらしてましたら、腐ってしまうんですよ。身体だけではない、心も腐ってしまいますからね。
 腐ってしまうんやけど、御祈念の時間を定めて頂いてるし、教主金光様は、朝の早うから御神勤くだされてる。そいうふうに一生懸命してくださる。それを見せてくださって、御祈念の時間をお与えくださっている。「ああ、有り難いこっちゃな、ええとこへご縁を頂かしてもろうたな」。これ、ほっといたら腐ってまうで。自分自身がな。朝の御祈念キチッとなかったら、私どないなってるやろうなと、腐ってしもうてどうしようもなくなってしもうてるでと。何しか「ずぼらしよう、ずぼらしよう」と思うてるから、たちが悪い。自分に言い訳上手やからね。世の中で言い訳するの誰や、言うたら、自分に自分が大変に言い訳をしよりまするでな…。


 そうしました時に、「神縁まことに不思議にして、今この道にい出会うを得たり」今≠「うのは、瞬間ですな。「有り難いな」と思わさしてもろうた時に、神縁まことに不思議にして今≠アの道にい出会うを得たり。そうして「有り難いな」と思たら、眠たいの吹っ飛んでしもうてな。これ勿体ないこっちゃな。これ御祈念の時間なかったら、どうしょうもなくなってくるでと思う。御祈念の時間があるので、起こして頂いて、今日も一日御用にお使い頂けるんやなと。
 その時に、有り難いな。御用があるのは、有り難いなと思うて、御用がなかったら、どうしょうもないでと。腐ってまうでと思うてしまいます。
 言うと失礼ですけど、ホームレスのお方が時々尋ねて来られる。「働かんかい!」言うのは簡単なの。もう、心が腐ってしもうてるのね。身体が腐ってなくても、心が腐ってたらね。腐ってしもたら、働くことが出来へん。何することも出来へん。完全に心が腐ってしまうんでうすね。ホームレスの人はね。
 自ら「さあ、さしてもらおう」いうものが無い。始めはあったんやろうけど、段々ずぼら心がずっと溜まってきよりますねん。誰でもずぼら心いうのは持ってますねん。ずぼらしたいないうのはあるんのやけど、「ああ、してられへんがな」と踏ん張れるかな。「ずぼらしてまえ」になってまうか、ずぼらしてても、ヒュッと返れたらええのやけど、ずぼらがずぼら呼んで、またずぼらになって、今度自分の心がコントロール出来んようになって、にっちもさっちもいかんようになるのが、ホームレスと言われる人たちやろうなと思う。
 しかし、我々でいつ、そないなるやら解らへん。いつ、そいうふうなことになるやら解らへん。「神縁まことに…」の縁というのは、人と人と縁だけではなしに、神様とのご縁、お仕事とのご縁、御用とのご縁をお与えくださっている、これが尊い。これが「神縁まことに不思議にして、今この道にい出会うを得たり。神様は、働き通しにお働きくださっているんやな」と眠たい中に、逆にお礼が申せて、有り難いことやな。「腐らんですんだ」と有り難いこっちゃなと思わさせてもらいました。有り難うございました。

(平成十年九月二十一日)

お天気にこちらを合わさしてくださるお働き

 昨日は秋季霊祭、秋の御霊様のお祭りを頂きました。昨日もお話したんですけど、お祭りをする。お参りをする。その準備をするのですが、そうして人間側が、そのように準備をしたり、お参りをしたりと、人間側がしてるように思うんですけども、それも神様がご都合御繰り合わせ、あるいは御霊様が祈り添えをしてくだされて初めて、出来さしてもらうもんなんですね。
 ところが、こっちが「する」とか、「出来ない」とかいうことで、決めてかかっておる。「どうぞ、させてください」とお願いをさしてもうていかんと、「する、する」言うても、「してくれんでもええ」言われたら終わりじゃ。
 御霊祭りするとか、何々のお祭りするとか言うて「する、する」とじゃなしに、「どうぞさせてください。お使いください」という心持ちがなかったらどうもなりませんね。
 前日が台風(台風7号、大阪を直撃、暴風雨警報)の大騒動でございました。そいう中でも台風の真っ最中に遠いところから、御用にお越しになる「どうぞ、させて頂きとうございます」という思いがあるので、こちらから、せい言うたことないんですね。「どうぞ、させてください」という思いを持って、台風の最中でも、御用にお使い頂くべく、こられました方が段々におられます。


 私もその台風の最中、午前中でしたが、神饌物を市場へ家内と二人で、買い物に行かしてもろうた。うちは、自動車がございません。この梅田の真ん中では自動車が要りません。お商売してるとか、そんなのではなかったらね。もう地下鉄から、私鉄から、JRから、もうほんとに便利な所でありますので、自動車わざわざ持つ必要がありませんし、また、持ったかて置くとこもあれへんし、というような案配で、あとは自転車、人力車やな。自転車で全部すまさしてもらえる。これは駐車違反もひっかかれへんし、非常に楽なの。
 自転車で市場まで神饌物を買いに、家内と行かしてもらう。もう朝からジャーと雨が降っとる。それで、神饌物は重たいんですわ。お盛り物してしまうと、わずかしか見えませんけども、ダンボールに入れたら、何倍かあるんですよ。その雨の中、買い物に行く。傘さして、とても運転出来る状態ではない。重たいから後ろへ、ワァーとひっくり返るぐらいのものなんですね。そやから、はじめから「土砂降りの中、濡れて行こう」という腹を決めて、私も海水着ではないけれども、まさか水着着て飛び出す訳にはいかんので…。
 短いズボン、短パンをはいて、上はTシャツで、ずぶ濡れになってもいけるように出ました。家内はレインコートを着て、私にはレインコートはおまへんねんで…。家内はレインコート着て市場へ出ていった。
 行きしなは、ほんま、ポツポツで、雨が降らん。市場へ着くなり、ザーッと降ってきた。「はあ、やっぱり降ってきたな」と。それで、野菜、果物やとか様々なものを買わしてもらった。私はダンボール二箱積んで、「さあ、今から、またずぶ濡れでいくぞ」と思て、自転車の後ろへダンボールの箱をくくりつけた。重たいのこれが。「重たいな。ひっくり返らんようにせないかんな。ハンドル取られんようにせないかんな」それで市場から出ようとしたら、雨がピタッと止んだ。「はあ、有り難いこっちゃ」いうことで、重たいから自転車漕ぐのフラフラしもって、教会まで辿り着いた。
 荷物を下ろさしてもろた瞬間から、ザーッとまた降ってきた。「はあ、有り難いことやな」とずぶ濡れの中ハンドル取られて、フラフラしもってやったら、危ないの。「はあ、おかげ頂いたなあ」ということでございます。


 そして、昨日、霊祭当日でございます。朝十時から、墓前祭、お墓のお祭り、お仕えする。九時に教会に集合いたしまして、そして神饌物やら、お墓の祭具いうてお三宝やら、八足やら色々車に積んで、出発や。ほんで、約三十分かかる。教会から南へ阿倍野という墓地がある。そこへ行かしてもらう。
 三々五々、信者さん来られて、今度は車も三々五々来て「さあ、出発さしてもらいましょう」いうて出たら、ポツン、ポツン、ポツンと降ってきた。「ああ降ってきたがな。どうやろう、とりあえず行かしてもろうて、お祭りできなんだら、御祈念だけでもさしてもろうや。」ということで、ところが、南へ行けば行くほど、ポツン、ポツンが多くなる。南の空見たら、真っ黒けや。「ちょうどあそこ、お墓の所が真っ黒けやで」いうことで約三十分かかって、お墓に着かしてもろうた。
 お墓へ着かしてもろうたら、ピタッと止んでるの。「おっ、これはお祭りさしてもらえるで」いうことで、慌てて、神饌物や祭具、お三宝やらそんなもの下ろして、それで、みなチャ、チャ、チャと出来て、十時からお祭りをさしてもろうた。約三十五分ほど。お祭りをさしてもろうたら、終わるなり、またポツン、ポツンとザザザッ、ザーッと。みなチャ、チャ、チャと片付けてほんで教会に辿り着いた。結局濡れずや。


 そいうことを思わさしてもろうのでも、神様はご都合御繰り合わせくだされたと、こうお願い、お礼を申すんですけれども、お天気を、私みたいな、あるいは扇町教会ぐらいの程度ぐらいのことでお天気を変えなさる。そんな厚かましいこと思われへん。ほんなこと「台風向こう行け」言うたら向こう行くわいな。そんな厚かましいこと思われへん。
 ただ、その雨の中の合間、晴れ間をこちらが出来るように、買い物でもな、「この時間行きや。この時間行ったら、土砂降りに遭えへんで」と。そいうふうにお使いをくださる。まあ、お天気をこちらが変える言うたら、ご無礼な。そんなこと出来るんやったら、「台風向こう行け」言うたら終わりや。そんなことじゃない。「地震くるな」言うのと同じや。地震もおこしになるわないな。台風もおこしになる。しかし、そのおこしになる中で、「今この時間買い物行きや。ほんなら降れへんで」と。「さあ、行こう、行かしてもらおう」と。向こうのお天気に、こちらを合わさしてくださる。合わしてくだされて、段取りを付けてくだされる。「恐れいったこちゃなと、もったいないことやな」と思う。
 こちらにお天気合わす、いうようなご無礼なことは無い。天地のお働き、そんなことぐらいで合うはずがあれへん。しかし、そのお天気に、こちらを合わさしてくださるお働き。「今、行っといでや。今こうするんやで」と、始めからずぶ濡れ覚悟やがな。「行っといで。今、行っといで」ほんなら、晴れ間の時だけ、移動や。雨の降らん、晴れ間の時だけ、移動さしてくださる。恐れいったこちゃなと。
 そやから、お祭りをお仕えするとかを言いますけど、お許しを頂いて、ご都合を頂いてお使いを頂いてからこそ、さしてもらえるんであって、「さあ、しましょう」言うたかて、出来へん状況が出来たら、出来しませんわな。「出来へんかった」いうことになる。そうじゃなしに、お仕え頂きますようにと、お仕えをさせて頂くいうことであろうかと思います。有り難うございました。

(平成十年九月二十四日)