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地獄絵図の中の教祖様

 人間というものは、気ままというか、どうしょうもないと言いますか、そいうところがある。「これさえちゃんとなったら、幸せになるのに」とか、あるいは問題があったら「私ほど不幸なものはありません」というふうに、一つのことが起こったら、そればっかりに囚われて周囲といいますか、他の恵まれてることが何にも見えない。まあこれが人間というもの。これが歯一本痛っかったら、シューと舌がゆく。その痛い所をつつかんでもええのに、またつつきよる。
 教祖様が、「この私が、おかげの受け始めである。私はこんなにおかげを頂いとります」と。こうおっしゃっておられますが。その「おかげを頂いております」とおっしゃるその教祖様は、どんなおかげを頂いてはったんでしょうな。


 普通皆が言う「何にも考えることがありません。私ほど結構なことありません」いうのは石の地蔵さんみたいなものやな。そんなおかげを、教祖様思てはれへんのですわ。ずんべらぼうに、なってしまいますもの。
 みんな、生きるいうのは、次々問題が起こってくるんでしょうけど「私ほど不幸の者はありません。私ほど辛い者はありません」「これさえちゃんと、行けば幸せになります。これがあるために、私は不幸でございます。」まあ、永遠に不幸でしょうな。その人は…。ずんべらぼう不幸でしょうな。そんな人は…。生きるいうことは、次々と起こってきて当たり前のこと。
 昨日、この秋に結婚をする若い者に言いましたけど、「えらい目に遭うで、知ってるか。今まで独りで、気ままにしてたんが、今度相手出来るんやで」言うて。「しんどなるで、止めるんやったら、今のうちやで」「止めへん。止めへん」「それはもう、もめるでー。好きにさしてもらわれへんでー。えらいこっちゃやでー。解ってるか。」子供出来たら、子供出来たらで同じことですよ。
 というふうに、生きるいうことはそういうこと。これさえなかったら、これさえなんとかなったら、ということばっかり求めてたら、その人は永遠に不幸の人生でしょうね。離れ小島で独りで生きたらええねん。それでもあきませんわ。人間、身体いうのがありますからね。痛い痒いが出てきますから。永遠みたいなもの、永遠にその人、「私の人生暗かった」やないけど、その人永遠に不幸でしょうな。


 教祖様が「私はおかげの受け始めである。私は幸せもんである。有り難いことであります」教祖様は、どんな有り難いことがあったかいうたら、問題ばっかりですよ。
 次から次と問題が起こり、問題から見たら、もうほんとにあんな気の毒な人あるかいな言うぐらいの問題。次々、肉親は亡くなっていくわな。嫁はんは逃げかかりよるは、子供はグレよるわ。それはもう問題ばっかり。
 それが、「私ほど幸せなものはございません」とこうおっしゃる。そやから、この条件と違うのね。皆「これさえ上手いこと行けば、私は幸せ」と、条件を皆求めてるのね。一生この人は不幸せでしょうな。次から次と事柄が起こってくる。生きるいうことは、そいうことです。そいう問題をも含めつつ、「今日もまた、神様生かして下さってございます。勿体ないことでございます」と。「神様と共に今日も生きさせて頂きます。有り難いことでございます」と。「今日もまた願わさして頂いて、皆が幸せにならして頂きまするように」と。そのような信心をしているから、「私は幸せでございます」と。条件から見たら、教祖様は不幸せ。幸せな条件は、何にもあれへん。条件から見たらね。
 それをも含めて、夫婦になったら、結婚したら「もめまっせ」言うて。ほんなら止めといたらええねん。始めからね。オギャーと生まれたら、身体を頂く。身体を頂いたら、痛い痒いが出来る。当たり前のこと。それ嫌やったら、生きるの止めといたらええねん。生まれたら、必ず年を取る。「なんでこんなシワが出来るの」何を言うてるの。生きてるからシワが出来とんのや。そのシワが嫌やったら、生きるの止めといたらええねん。始めから。「私は、こんなシワ出来るとは思わなんだ」と嘆いて人いてたけどな。アホみたいな。ほんなら、生きるいうの止めといたらええねん。生きるとは、そういうっこっちゃがな。
 「はあ、シワが出来るまでお使い頂いてきた。生きさしてもろうて有り難うございます」と。「ようもめてる夫婦でございますけれども、この夫婦でございますから、もめるおかげを頂いてます」言わないかんのん。
 夫婦でなかったら、もめることあれへんもん。子供無かったら、子供のことで、もめへんもん。「はあ、もめることが有り難い」というたら問題やけど、おかげを蒙っていかないかんのやけれども、その根底に「はあ、子供を頂いたからこそ、このもめることを頂いております。有り難うございます」と。「どうぞ、いい子供に、あるいは幸せな子供になってくれまするように、また良い関係にならして頂きますように、次々と展開さして頂きまするよう」と向こうていかないかん。
 ところが皆、世間でいう、ほんとんどの人の幸せ、不幸せいうたら、なんやいつも、饅頭が転がってきて、温泉へ毎日浸かって、お小遣い思いっきりあって、フワフワしてるの。ほんなの石の地蔵さんや。アホ言うねん。
 教祖様は「私ほど幸せな者はない。私ほどおかげ蒙ってる者はない」とおっしゃる。実体は違いますよ。事実は違いますよ。気の毒な人やなと言われるぐらい大変な人生です。
 子供さんがグレてしもうて、やくざみたいになってしもうて、はあ、借金取りは押し掛けてくるわ。嫁はんと駆け落ちをしよるわ。その嫁はんも、水商売の女やわ。はあ、大騒動やそうしてくると、内輪はもめるわ。兄弟ゲンカはしよるは、奥さんは「こんなんもう嫌」言うて逃げてかかりよるわ。へー、端から見たら地獄絵図や。
 その地獄絵図の中の教祖様が、「私ほど幸せなものございません。私ほどおかげ蒙っておるものございません」。それは、今月今日の命を頂いてるこそ、起こってくる事であり、それなるが故に、起こってくる辛いことも、これもおかげの中身であると頂ききれたから、「私ほど幸せな者はございません」と言える言葉が出たんでしょうね。
 皆幸せになってる言うたら、「アドバルーン」になってること幸せと思てるからね。とんでもない、そんなこと思てたら一生、不幸せでしょうね。生きるということは、次々起こってきて当たり前のこっちゃ。離れ小島で独りで住んだらええのやけども、独りで住んでも、身体があるからね。痛い痒いが出てきますからね。そいうことですな。
 それを仏教で言えば、「四苦八苦」と言うんですけど、教祖様は「おかげです」とおっしゃっている。それが、有り難いんですと。えらい目におうて、なんで有り難いんか、辛い、そのままを神様へお願い申すことが出来、その痛みを神様と共に味合うてくださり、そして必ず展開して良いことにならしてもらう。良いことになっても、次の問題があるんよ。それが必ず良い働きにならしてもろうて、また、次のことが起こってくるんだけれども、それが、生きる道筋で有り難いことになってくると解らしてもうてるから、「私ほど幸せなものはございません」と言い切れる教祖様であります。有り難うございました。

(平成十年九月十七日)


家庭に信心の柱がいる

 昨日、昼御飯を皆で頂いておりまして、テレビを見ると、九月が敬老の月でもありますので、NHKで「元気なお年寄り」というシリーズの番組がやっておられた。
 その方は瀬戸内海の漁師さん。九十数歳。今も現役で海へ出られて漁をしておる。その、映像を映しておられました。鯛を釣るのが好きで、お食事もみな鯛尽くし。骨まで、皮まで全部料理をされるということで、素晴らしい鯛の料理をされた。ほんとに九十数歳とは見えない元気な漁師さん。
 船から上がりまして、料理をされるところを、また映しておられて、そして、家族中で四世代、ご一緒に住んでおられた。四世代ご一緒の食事風景が、映されてる。田舎のことでしょうから、お座敷も広いですね。立派なお家で、お座敷も大変広うございました。ズーっと、カメラが回っておじいさんおばあさんから、次のおじいさん、おばあさん四世代やからズーっと孫まで映し出される。その時に、家内と高橋さんが「あれ」という。私は、ご飯を食べておった。「あれ、ご神前映ってある」天地書附も映ってあるねん。お水玉も映ってあるねん。御紋付きのな。「あっ、ここ、金光さんや」言うてまたカメラが回る。もう一周まわって、「あっ天地書附あった。ご神前あった、お水玉あった」いう案配で。
 ご信者さんのところがたまたま映ったんでしょうけども、長寿の御一家、おまけに四世代の御一家の食事風景が出ておりました。
 それを見さしてもろうて、有り難いなと思うて。今日では、もう別居するのが当たり前。という時代にあって、四世代が同じ家に住めるということ。これには、何か柱無かったらね。普通なら、気使うてフラフラになるか、ケンカするかどっちかや。九十数歳の御長老から、ずっと一番若い世代までが、共通のものを持っている。みんな、今日は個人主義やから、皆、それぞれ価値観を持ったり、色々な生き方をする。それはそれでよろしい。みんな「右向け右」の時代と違うんやから。皆、それぞれ違うんでええんやけども、その違う、それぞれの個人、それそれの自立した個人には違いなんいんやけれども、ここのところでピシッと合うものが無ければ、四世代が生活していくことが出来ません。


 例えばこの指が五本ある。親指もあれば、人差し指、中指、薬指、小指と皆違いますでしょう。皆違うからええんですわ。教祖様もそこをこうおっしゃる。「五本の指がある。五本とも違うから物がつかめたり、仕事が出来るんじゃ」と。五本違うからええ。違わなんだら困る。しかし、違うそれぞれの五本の指、手のひら≠ナまとめてますな。ちゃんと。手のひらでキチッとまとめてるから、違うそれぞれの大きさや長さの指が、働きが出来るの。ここが大事。
 今日では、個人主義で、それぞれの価値を持って生きていく、その価値の中の要になる。扇子の要やな。扇子の要になるものがご信心やねんな。このお家、そやから四世代ほんとに明るく楽しく生き生きとな、生活が出来とるんやな。これは、有り難いなと思うて。
 教祖様が「此の方の道は、子孫繁盛家繁盛の道である」と。これは教祖様の御理解はすばらしい御理解であるんだけれども、この御理解ほど難しいみ教えがない。
 どこでも自分気まま勝手にしだしますねん。「親苦労子楽孫乞食」言うてね。大体そのコースを歩んでしまう。親が苦労して財産貯めたら、息子がパッ、パッカ、パッと。決まってある。コース決まってある。それが、信心の要、家庭の要として信心をして、キチッと押さえておられるんじゃなと、キッチと押さえとかんと、本当の子孫繁盛家繁盛のおかげを蒙っていかんのやね。そういう意味で、扇子でいう要、家に要が出来ないかん。それがご信心であるということ。そして、色々な人間がいててええの。指が五本とも違うように、それそれの働き合いをしたらええのであって、信心の要、家庭の要、家の要というふうに信心を押さえておられる。
 そのカメラは、別にご神前を映そうとか思ってない。かえって映したら、この頃では「なんや」と言われないかん。公の機関がそんなこと映したらいかんのやけども。
 だけれども、ご家族が、おじいさん、おばあさんを中心としたご家族が、ご神前の前にちゃんと座って、お食事してるのね。嫌がおうでも、ご神前が映るの。天地書附も映ってあるの。大変に微笑ましい風景を見さして頂き、「はあ、ここの家は真剣な信心をしてるな」。真剣な信心いうのは、キーッとした、キャン、キャンの信心ではなしに、物事が解る信心、信心でも物事が解らないかんの。キャン、キャン言うてるだけでは、信心の内に入れへんの。何が大切かということをキッチッと押さえられる信心を、しておられるんじゃなあという思いをいたしました。有り難うございました。

(平成十年九月十八日)

願う氏子におかげを授ける

 天地金乃神と申すことは、天地の間に氏子おっておかげを知らず、神仏の宮寺社、氏子の家宅、みな金神の地所、そのわけ知らず、方角日柄ばかり見て無礼いたし、前々の巡り合わせで難を受け。氏子、信心いたしておかげ受け。今般、天地乃神より生神金光大神差し向け、願う氏子におかげを授け、理解申して聞かせ、末々まで繁盛いたすこと。氏子ありての神、神ありての氏子、上下立つようにいたし候。(明治六年十月十日のご神伝)

 今朝の新聞に載ってますが、天六にありまする更生施設、すなわち家の無いお方たちですな。そういう人たちを預かる施設があります。そこへ信者さんの古川さんが職員として御用してるんですね。その施設、約百五十六人の方が入っておられる。そこから、それぞれ仕事に行かれるというよな施設なんですけども。
 一昨日、施設の食堂を掃除をしてきれいにするために、その日の昼、施設の人たちの昼食に外食を取った。弁当を取ったんです。そしてそれを施設の入所者へ皆配った。ところが、それが食中毒になった。弁当が腐ってたか、菌が入ってたんでしょうね。それが、朝刊に載っとります。
 昨日の晩、その古川さんからお届け、お取次がございましたですが、
 「先生、私は食中毒かかりませんでした」
 「ええ、なんで、あんたも弁当食べたん違うんの」
 「いえ…」
 その訳はどういうことかと言うと、古川さんは、ボランティアで活動してる人なんですけど、手話の講習の先生、指導者をやっていますねんな。それで、お勤めが終わってから、手話の講習会へ行って、皆さんに手話を教えさしてもらうボランティアをしておる。その手話の講習会に来ておられるお方が、お隠れになって、そして、弁当食べた昨日の昼ですかな。その日告別式へ、その手話の会の代表として、弔問に行かしてもろうた。ちょっと、お仕事の暇をもろうて、訳を言うて、お葬式に行かしてもろうた。その間に他の人たちは、食中毒の弁当食べたん。それで古川さんだけが、その弁当食べてない。「有り難うございました」ということなんでえすね。


 その話し、お届けを聞かしてもろうて、「有り難うございます」という中に、色々あると思う。自分が食中毒起こす弁当を食べなかった、いうことも有り難いことや。それと同時に、もう一つ有り難いことがある。それは、職員の人も全員食べてるんやからね。職員の人も全員ダウンですわな。えらいこっちゃ。元気なのは古川さんだけや。そうでしょう、入所者も全員弁当食べて、職員の人も弁当食べて、世話せないかん職員の人も、ダウンや。元気なのは、ただ一人食べてなかった古川さんだけなの。
 まあ、その対応ね。保健所の対応、入所者の入院、もう様々な対応を古川さんが一人でするんやけども、これ、古川さんまでも倒れてもうたら、誰も対応出来ませんわな。職員までひっくり返ってしもうてる。同じもの食べてるんやからね。それが有り難いことやな。「お役に立たしてもろたな」というふうに、思わさしてもろうた。有り難いことが二つあるの。
 一つは、自分がその食中毒で倒れなんだというおかげ。そして倒れなんだ故に、他の職員が倒れてしまったので、全部その世話をさせて頂けた、対応がさして頂けたというおかげ。そういうおかげがある。人間は先のことが解らん。先のことを知っておらん。何が起こるか解らん。そういう中で、大難は小難、小難は無難の『お祭り替え』くださる、ということと同時に、ただ単なる『お祭り替え』じゃなしに、いかなる状態にあっても、お役に立たせてもらえるおかげを、蒙らないかんのね。
 明日何起こるか解らん。昨日の続きで今日があり。今日の続きで明日があるんやけども、人間の目では、先は見えない。そいう中にあって、ご都合お繰り合わせを蒙らせてもらえる日々の信心というものは、非常に大切なことで、皆それぞれに努力一杯しておるんでございます。何が起こってくるやら解らん。努力外のことがヒョコと起こってくる。そういう中で、ご都合御繰り合わせを蒙らしてもうてることは、非常に有り難いことやなと思う。
 と同時に、今日頂きましたみ教え「願う氏子におかげを授け」と、やはり氏子側は、何起こるか解らんけれども、「どうぞ」と、せめてものお願いと、せめてもの御用をさして頂くことによって、神様につながっていくというか、ご準備くださる。大難は小難、無難は小難に『お祭り替え』くださる。そのくださるその神様との間にパイプがつながっとかんとな。それには、せめてもの御祈念と、せめてもの御用をさして頂くということでなかったら、つながりようがありませんわな。


 そういう中で古川さん、「明日新聞出ますから」言うて来て。案の定大きく新聞に出てますわ。食中毒。その中で、「自分だけですねん。食べてへんのは」。お腹痛おこさんで、病院へ運ばれんですんだ、いうだけのおかげではない。古川さん一人だけでも助かったということだけでも、その施設が助かる。多くの人が助かっていくという、お役に立たせてくださるという、段取りを神様がおつけくだされた。その段取りを頂けるお徳を、頂いていきたいものだと思います。有り難うございました。

(平成十年九月十九日)