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大阪府連盟の拠出金

 大阪府下に約百四十もの金光教の教会がございます。その百四十の教会が一つの緩やかな組織と言いますか、きつい組織ではなしに、緩やかな連合を組みまして、大阪府連盟いうのがあります。たまたま私が今、府連盟理事長のおかげを蒙らしてもうて、もう今年いっぱいで終わりですけども、さしてもろうてる。
 府連盟は、府下約百四十の教会の皆さんによって成り立っておる。月々のお説教にまわらしてもろうたり、講演会を開いたりということで、四十数年、五十年近く、続かしてもろうとる。それで、そういう会には経費というものがあります。百四十の教会から拠出金というものを出して頂いて、運営されておる。拠出金は、何段かの段階を持っておる。教会と言っても、例えば、千人二千人もお参りする教会もあれば、長屋の奥で、お婆さんが一人で、頑張っておられる教会もある。はあ、有り難いという思い、ただただ有り難いという一心で、頑張っておられるお教会もありましてね。
 様々な教会が百四十の中にある。その百四十の教会から拠出金を出して頂いて運営をさしてもろとる。この拠出金もランクをつけまして、自己申告制。「うちはこのランクで拠出さしてもらいます」いうて、それぞれがご自身で、自己申告をして頂いて、それで運営さしてもろうとる。
 そのランクの金額が、十数年間改訂されておりませんでしたので、どうも組織が運営しにくなってきたので、それで、私の代で、嫌われ役やろうかいうことで、その各ランクの値上げをお願した。それぞれ、自己申告をして下さいということで、お願いをいたしました。
 なんでも、会費の値上げとかは、あんまり好かれへんねん。誰でも同じこと。今の理事の先生たちが、「押木先生、かえって減るで。止めといた方がえん違う」いうて、自主申告ですからね。あちこちから、理事の先生から心配して言うてくれる。「かえって減ったら、えらいこちゃがな」ということで、色々意見が出たんですけどね。私は、「いや、大丈夫やで、おかげ頂くで」いうことで。それで、嫌われ役をかってでた。もうすぐクビになるから、クビになりついでに、嫌われ役をさして頂こうと。そして、さて、ふたを開けてみた。百四十からの申告を頂いた。
 有り難いことに、約四十パーセントぐらいアップした。有り難いなと。どこそこの教会は、どれぐらいアップしてくれはったなあいうのがわかる。そういう中で見えてくるものある。
 こういうたらいけませんけどな。「ああ、ここの先生はどんな考え方やな。」また、減らしはったところもある。「はあ、ここは減らしはって無理ないな」というところもある。「前は良かったけど、ちょっと今な。ダウンしてはるから、無理ないなあ」というところもあるし、「えらい、ようけ張り込んでくれはったなあ」というところもあるし、「まあ、まあ前の通りでええやないか」というところもある。
 そういう中で、百四十の教会の申告をずっとみさしてもろうたら、おもしろいなと。増やしはったところね。先ほどいう長屋の奥にある教会。そいうところが増やしてはるねん。おもしろいですね。たまたま、そこの先生に会うた時に、「先生有り難う。あんまり無理なさりなさんなや」言うて、ご挨拶したんですな。「先生うれしいけど、ちょっと無理したらあきませんで」言うて。
 そいう言うと、その先生「いや、押木先生、いつもご苦労でございます。有り難うございます。私は年寄りで、小さな教会で何一つお役に立てません。申し訳ないといつも思うとります。至りませんけども、何も出来ません。相済まんこと、おじゃまなことばかりなってるん違うかと思います。まあ、せめてこれぐらいの御用はさして頂かな、どうもならんと思うて、申告さして頂きました。」という信心≠ナ、申告してるのね。「せめてもの…」気持ちでね。「はあ、そうですか、有意義に使わして頂きます」言うてお礼申した。
 逆に前期と同じぐらい、もしくはトントンの教会は、「大阪府連盟、何やっとんねん、あんな組織では、いかんわ」と。組織論で、拠出するところ。
 何十年という年月が経ちますと、組織で物事を見ようとする。「あんな組織ぐらいやったら、これぐらいでええやないかとか。私とこは、直接メリットもあれへんから、減らしたれ」というようなことで減らす。だからその同じ申告でも、ここの先生、こんな考え方やなというものが見えるのね。やはり、我々はご信心、神様に常にどうなのか、ということを思うとかんと危ない。


 教会でも同じことで、色々な働きがある、色々の人がいてる、あの人はこうじゃから、こうやとか、私ら、こんなの関係ないやとか。すぐそっちの目でフワーと見る。
 もうすぐ御大祭が始まりますけども、また、同じように御用してたりするけど、パッと見えますなあ。この人の心は、どの辺で御用してるな。せないかんからしてる人なのか。誰々に言われたらするのかな。有り難うてしてるのかな。義務でしてるのかな。皆見える。神様はもっと見える。
 そやから、信心いうのは、神様と自分とがどうつながっとるのかいう、これが一番大切なこと。つながってる私は、どうさせて頂こうとするのかという、ここが一番大事なところでしてな。ついついと、形やらそんなところばっかりで、義務やら形やら、なんでせないかんねん、というそんなところで見てる。
 広前の掲示に、『信心の基本』で「参る」「聞く」「祈る」「奉仕」と打ち出したのが、前も言うたように、長年信心しても、話を聞いてないねん。聞かれへんねん。実際のところ、物理的に無理やな。だからこれは、えらいこっちゃいうことで、人間考えのところへ、ヒュッといってしまうのね。危ない。だから、「参る」「聞く」「祈る」「奉仕」いうことでやって、「テープを聞いて」いうことで聞かしていく。そうでないと、すぐ人間の我情我欲のところへ、シュッと入ってしまう。入ってる本人わかりませんねんで。端から見てたらわかる。「あーあ」と。ほんで「あんた入ってるで」言うたら、怒りよるからね。顔に墨付いてると言ったら、「おおきに、おおきに」言うけどね。「あんたの心に、墨ついてまっせ」言うたら、怒ってしまいよるからね。明くる日から来よれへん。余計、来んようになってしまうからな。
 大事なのは、神様と自分との関わりで、せめて私はこのようにとの思いで、何でも神様に向こうていく。そのお婆ちゃんの先生が、「私は何も至りませんけども、ごめんなさいね。せめて…」ということでね。あとは、組織論でもってきたり、義務感でもってきたりする。色々ありますね。やはり信心は、神と人と書いて、しんじんとおっしゃる。神様にどう自分自身が向かわさして頂くが、大事なことかと思います。有り難うございました。

(平成十年十月十五日)


守られてる世界が見えないと難儀する

 昨晩、五時頃でしたか、三十八才というておられまして、北陸の方の人でした。身なりはちゃんとしてはるんですけど。
 「助けて下さいと。もうどうもこうもなりません」言うて来られた。どっかで見たような顔やなと。本人さんは、「いや先生とは初めてです」とこういうんやけれども、「一辺来たことないか」言うて聞かしてもろうたんですけども。
 「前、一辺来ました」
 「どれぐらい前や」
 「一年ほど前でございます。先生とは違いました」ということなんですけど。
 大阪へ職を探しに来て、もう一銭も無くなりました。国へも帰れません。借金だらけですと。
 「一銭も無くなりました。どうしたらいいんでしょう。もう、私なんか生きていく価値がないんでしょうか」という案配やね。その人に言うたん。
 「そこまでなるまでに、なんで早うけえへんねん。もうどうしょうもないやないか。そこまできてしもうたら…。」
 「電話貸してもらいますか」
 「電話使ってもいいよ」言うて。国の方に、親や兄弟へ振り込んでもらうようにな、キャッシュカードは持ってるらしい。それが、五時、六時の話や。
 先ず、妹さんに電話したみたいやな。ほんなら向こうからガチャン切られてしまうわな。次、お母さんに電話した。お母さん通じひん。ということは、これもガチャンと同じや。電話して欲しくないということやな。
 おもしろいのね。今度は、前の前の嫁さん。離婚二回してるんやね。前の前の嫁さんに電話して、お母さんの家とわりと近いらしいな。
 電話して「お母さん呼び出してくれ」ということで行ってもろうたみたい。向こうから教会に電話がかかってきた。前の前の嫁さんからね。
 「お母さん、ドアを閉めて、もう誰とも会いませんわ」いう案配。
 それで、電話しようとするからね。
 「まあまあ、電話ぐらい使うてもええけども、あんた、国でも、あんたを見捨てたんやで。というよりも、あんたと関わりたくないんやで。全然あんたと関わりたくないんやで。親兄弟まで、あんたと関わりたくない」
 「いや友達もいますから」
 「友達?ましてやで、借金だらけなんやろ」
 「そうです」
 「離婚二回もするくらいやから、あんたは、嫁はんが悪いと思うてるか知らんけども、あんたの生き方が、今日までの生き方が、そないなってるんやろうな。」
 「あんた、どないしょう、どないしょう思うてるのやろう。」
 「そうです」
 「どないして行ったらええのやろう。思うてんのやろう。今日でも寝るとこ、どないするねんな。とりあえずの問題と、先々の問題とちょっと整理せないかんがな」言うて。
 とりあえずの問題と、先々の問題とね。もう落ち込んでしもうて、「私なんか、生きる価値が無いんでしょうか」もう何言うてもあかん。
 「私なんか生きる価値がないんでしょうか。生きる価値がないんでしょうか」と。かわいそうやけどもな。なんの取っ掛かりも無いねんな。取っ掛かり無かったら、生きて行かれへん決まってある。
 「とりあえずな。まだ六時やから、大衆食堂や、大衆酒場があるから、今日だけで結構ですから、皿洗いさせてくださいと行っといで。そうしたら、ここ梅田はようけあるから、一軒ぐらいはある。就職さしてくれ言うたら、そう簡単に就職さしてくれへん。こういう不景気な時やしな。ほんで、保証人もなければ、何も無い。あんた、自分でちゃんと働きますと、なんぼ言うたかてな、信用なんかあんたの中に、何にもあれへん。」
 国の親兄弟、親類皆から、『あんたとは付き合いたくない』言われてる人やろう。しかし、今日一晩だけでよろしいから、皿洗いさしてくださいと行っといでと。時給七、八百円くれるわ」言うて。
 そういうふうにとりあえずのところから、いかなあかんなと言うてやりましたけど、もうそれも気力も無くなってしもうとる。朝から電話ばっかりしてますんやけども…。
 甘いな、考え方、生き方が甘いな。非常に甘い。


 それを聞いておりました娘の浩美の方が、「私みたいな人やね」「なんでや、お前」「甘いね」言うて。そうしてみると、自分が、自分がと言うけどな、守られてる世界がある。親、親類兄弟から、あるいは家庭からな、守られて生きてるところがありますな。そこから外れたら、どこへも生きていくことが出来ない。
 家の中でも、「よう、もめますねん」と言う。もめる家が、家庭があるいうことは、素晴らしいことですな。もめてる間は楽ですな。「ようけケンカしまんねん」という。ケンカしてるその家族やら、家庭があるいうこと。それが、守ってるいうこと。それが自分自身を守ってくださっているということ。
 よく、離婚なされた方が言われる。離婚する時は、特に女の人がね。
 「あんなもう男イヤです。あんな亭主イヤです。身震いします。鳥肌立ちます」言うて、エライ人と結婚した、なんとか離婚したいと。そこまできてから、言うてくるんやからな。そうなる前に言うてけえへんのやから。皆、ちゃわん割れてから持ってくる。茶碗でも割れる前に持ってくればええのに。継ぎようもあるんやけれどもな。割れてから持ってくる。
 それで、離婚した人がね。一年経って「しもうた」言うてますね。何がしもうたかというと、ケンカしてても、夫婦という一つの守られた世界があるのね。それが、見えない。一人になってみた時の、世間の風当たりというか、世間の風の冷たさいうか、別に世間は冷たくはないんやけども、女一人生きていくことの大変さ。私はやれると思うてた。そのやれるが、そんな甘いもんじゃない。ブツブツ言いもってでもな。朝昼晩ご飯作ってたことが、どれだけ守られてたことか。守られた世界なのか。
 「まあ、ほんとにちゃんと働きやがらんと、給料も少うて、ブツブツ、ブツブツ…」やってたことが、どれだけ、守ってもろてたことなのか。離婚してみてわかった。遅いわな。
 そうして見ると、ブツブツ言う、そのことにどれだけ守って頂いてるのか、いうことがありますんやな。失ってから解りますんやけどな。遅いわな。失ってから解ったかてな。
 これは、国でもそう。国の無い民、ユダヤでしたな。どれだけ惨めな思いをしたか。国に対してブツブツ、ブツブツ、国なんてあっても、無かっても同じように思てますけどな、国にどれだけ守ってもろうてるか、社会にどれだけ守ってもろうてるか、あるいは、家庭、家族にどれだけ守ってもうてるか。それが、見えない。家族やから、ブツブツもある。夫婦ゲンカも親子ゲンカもせないかん。
 一緒に暮らしているから、ケンカするんやね、なかったら、ケンカもあれへん。そうしたら無い人間というものは、どんなものなんのかということ。「縁を切られた、出ていって頂戴、もうあなたとは、一切関わりたくありません」と。すなわち縁が切れたいうこっちゃな。そういう人間がどれほど、惨めになっていくかと、いうことがね、そこにありますな。


 先ほどの人、どこで、寝たか知らんけど、もう寒い。雨も降ってきてどうもならん。気の毒と言えば気の毒。自業自得と言えば、自業自得なんですけども…。前の前の嫁はんに電話せないかんのも辛いね。
 生きることの甘さというか、それに守られている。例えば子供の世話をするいうけど、逆に子供に世話されたりね。子供のおかげで、親にならしてもろうてるやからね。そいうほんとの守られてる世界。いうことが目に見えない、というので難儀をしてる人がたくさんあります。有り難うございました。

(平成十年十月十六日)

ポコッと一歩抜け出ると……

 大正直の人と悪心の人は、よくおかげをいただく。中くらいの人は熱心さがうすく、おかげが少ない。(『天地は語る』一二七)

 変人になれ。変人にならぬと信心はできぬ。変人というは、直いことぞ。(理V・金光教祖御理解・七三)

 今頂きましたみ教え面白いですね。「大正直の人と、悪人の人は良くおかげを頂く」。悪人がおかげ頂いたら、困るがな、ということになるんですけどね。これ、何をおっしゃってるでしょうね。打ち込むということですな。
 大正直ということ、別の言葉で言うたら、バカ正直という。「バカ正直」と「大正直」とはちょっと違うと思いますね。大正直ということは、「大」と「バカ」とはよう似てるやろうけども、大正直というのは、真実に、真理に基づいて正直であるということ。
 人間の普通の正直は、「私はちゃんと物事やっとります。あの人はちゃんと出来る人やな」という社会一般的な、そういう意味で正直な人とか、ええ人とか言われることなんでしょうな。
 ところが、教祖様おっしゃる大正直いうのは、真理に基づいて、「自分の命はどうあらしてもろうたらええのか。例え世の中がどう変わろうとも、どのようになろうとも、天地の命に生かされてる私は、天地の間の、この生かされてる天地の道理、天地の真実にどうあらしてもろうたらええのかな」と。それを求めていく正直。これを大正直とおっしゃるんでしょうな。
 バカ正直というのは、これは、ちょっと質が違うて、「何考えてねんな」言われないかん。 「大」と付けておられるのは、天地に生かされてるこの命、天地の真理に基づいて、どうあらしてもろらうと求めていく。それが、大正直とおっしゃることじゃと。


 それで、悪人。悪人ってどういうことでしょうな。面白いなと思うて。悪心の人。これも一途なんですわ。悪人になろう思うたら、なかなかもってなれないもんでね。人のこと思うてたら、悪人になられしませんねん。あっちもこっちも、目を配ってたらね。「あっちも良かれ、こっちにも良かれ」思うてたらね。悪人になれないねん。「絶対に取ってやるねん。絶対あいつやっつけたるねん。キーッ。」と一心になる。ここらがよう似てるん。
 悪人になったらいけませんねんで。悪人になったらいかんのやけど、ものすごく似てる所がある。ところが、自分中心でしょう。そやから、例えば、こないだの和歌山の保険金事件ではないですけど、あれは、お金に「キーッ」なんでしょうな。
 ある人が、「そんなにまでして、お金欲しいですかね」という言うた人がある。これは、普通の人。普通の人はそう思う。ところが、この人は、それに執着するいうのか、お金がいるとか、いらんとか、関わりないんですな。「お金。キーッ。」となる人ね。その時は、確かに手に入れることが出来るん。ところが、そこだけ見たらそうなんだけれども、天地が許さんな。それで、結局その手に入れようとした、そのことによって身を滅ぼしますな。手に入れようとした、あるいは、手に入れた。それによって身を滅ぼす。自分だけが身を滅ぼすんではない、皆様、ご迷惑で滅ぼす。


 ところが、大正直と言われるのは、教祖様が一番や。例えば、世の中が日柄方位やら、すべてそれによって成り立っていた世の中に対して、「いや天地の真実はそれじゃない」ということが解られた。これは、天地に対して正直ですな。皆が「右や」言うてるのに、「いや左です」と言うてるんやから、「右や」言うてるの「いや左です」と言うてるんやから、「天地の道理から見たら右じゃございません。左でございます」という。
 士農工商があって、天皇さんがいてはる時に、「人間は皆同じです」というんやから、下手したら打ち首や。「皆、神様の氏子です。お殿様もなにもありません。皆人間です。神様の氏子です」と。これ、侍の世界で言うてるんやからね。うかつに言うたら打ち首でしょう。「無礼者!」言うて叩き切られないかん。しかし真実ですわな。真実に基づいている。
 その奥に「神様に…」という天地の道理に基づいて、「神様に…」というもので、その勇気が出るんでしょうな。これ、隣組で皆さんご一緒で。「ほんなこと言うてみなさい。えらい目に遭いまっせ」言わなならん。「お殿様も天皇さんもない。皆、神の氏子ですと。そんなこと言うたら、引っ張られますで」これ、皆、普通の人。ところが、神様に基づいて、天地の命に生きる、生かされてる私として、神様の仰せをどこまでも大切にさして頂くと。そうしてみると日柄方位を見るに及ばず。
 そやからね、その時分ね、日柄方位をみるのは、お上のちゃんと定まったことやったの。ただ単にカレンダーを作ったのと違う。お上の政治も、全部日柄方位に基づいて行われておった。そやから、今の法律みたいなもの。
 それを「天地は開け放しである。方角の善し悪しもない。日の善し悪しもない。天地まる生かしに生かしてくださっておられるんである」と。そんなこと言いうてると、暴れこんでくるわな。引っ張られないかん。「それでも…」と。これが、大正直。
 悪人は自分のことに関して「キーッ」となる。大正直の人は、人が助かっていく。その時はえらい大騒動してるようやけれども、百数十年経った今も、多くの人がおかげを蒙ってきている事実がありますな。
 悪人は、その時だけキーッとなったら、手に入れることが出来るんやけども、手に入れたそれによって、身を滅ぼす。自分だけが滅ぼすんじゃなしに、皆様ご迷惑で身を滅ぼす。ここがそのあやちね。ほとんどが、普通の人なんだけどね。
 そやから、普通の人は普通の人なりに、「まあ、まあ、おかげ頂いていったらええのでしょうな。まあ、まあ、でしょうかな。」
 しかし、信心の世界は、普通の人より一歩抜け出るところがなかったら、神様に通じへん。
 「うまいこといけへんかなあ。どうかいなあ、まあ、このへんかいな」という、そういう生き方をしてたら、神様になかなか通じへんねん。一歩抜け出ないかん。
 それを、「変人になれ、変人にならな信心は出来ぬ。変人とは直いことぞ」。直いことぞ≠ニ教えておられる。ちょっと、一歩抜け出ないかんねんな。その抜け出るいうことが、なかなか難しい。あっちゃも、こっちゃも見てるからな。
 「こんなもんかいな、そうでっかいな。まあ、まあ、この辺でいきましょうか。」ほとんどの人がそれやわな。
 そういう意味では、この梅田の真ん中で、ネオン街の真ん中で教会をやってる私は、一体なんやろうないうこっちゃな。変人いうか、バカいうか、一体何なんやろうかということ。
 「あっちゃも、こっちゃも、まあ、まあ結構なことで、皆さんそうですか。なるほど、そうですか…」それでもええんやけども、なかなか神様に通じにくいね。一歩抜け出る。「変人になれ、変人にならねば、信心はできぬ。変人は直いことじゃ」と言われる。一歩、ポコッと。教祖様のとこまで、よういかんとしてみてもね、一歩ポッと抜け出さしてもらうと、大きな大きなおかげを頂いていく源があるように思います。有り難うございました。

(平成十年十月十七日)