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あなたの願いは何パーセント?

 病気の人は「どうぞ早く全快したい」と願います。これは本音やね。「病気せんと解りませんわ」ということをよく言いますけども。病気をする人は「どうぞ全快しますように」と願う。
 また、お商売してる人は、「どうぞ繁盛いたしますように」と願う。病気の人が早く病気治りたい。これは百パーセント思う。さあ、商売してる人が「商売繁盛しますように」と願うのは百パーセントかな。色々あるけど、商売繁盛せんとやっていけない。そやから、願う本気さというか、それは五十パーセントぐらいになってるの違うかな。病気の方は、これは命がけやから、百パーセントどうぞと願う。商売繁盛せんとやっていかれへんので、商売繁盛を願う。願いの本気さ言うたら五十パーセント。
 学生の人が、「勉強出来ますように」と願う。毎年、勧学祭というて学年始めに、学生さんのお祭りをさして頂く。それで皆さん、それぞれ感想文を書く。「どうぞ勉強がよう出来ますように」と、皆書いてるわ。入試の子は、「どこそこ大学行けますように。どこそこ高校行けますように」と。
 時々私、皮肉を言う。「あんたそんなに、勉強好きやったかな。上の学校行きたい、行きたい言うけれども。あんたそんなに、勉強好きやったかな」と、時々皮肉を言うてやりますんやけどね。そうであるけども、学生はよう勉強が出来ますようにと作文に書く。その願いは、そうやなー。願いの勢いというか、一生懸命に願うていくのは、人によるけども、十パーセントぐらいか。そういうふうに、願うには違いない。それぞれの立場のところで、こうありたいと願う。
 病気の人は、ほんとに百パーセント願います。これは命がけや。お商売の人は商売繁盛、あるいはサラリーマンの人は仕事成就、学生の人は勉強成就を願う。その願いがどれだけ本気であるか。いうことによって、神様に通じるかどうか決まってきますわな。
 ところが、先ほど申しますように、誰でも願うんやけど、それが百パーセントの願いになかなかならん。それはなぜかというと、お商売繁盛を誰でも願うんやけれども、そのお商売繁盛。「繁盛してどないすんねん」言われたら…。「儲かりまんねん」「儲かってどないすんの。」「ちょっと、家大きくしまんねん。ちょっと海外旅行行きまんねん。ゴルフに行きまんねん」こんなでしょう。お商売繁盛して、儲けさせてもろうて、どうするの。その次があれへん。
 勉強もそう。勉強が成就しますようにと願う。勉強してどないなるの。こういうところがはっきりしないので、登校拒否が出てくるの。よう登校拒否、登校拒否言いますけど。「勉強してどうするの」というもう一つ先の願いが、はっきりしてないからなんです。


 昨日も商売人さんに、話ししたんですけども、立身出世をした話しがある。立志伝中の人いうのがある。その人の伝記を読ませてもらうと、まあ大概の出世した人は、貧しい家に生まれたいうことが一つやな。そして、その貧しい中で親が苦労して育ててくれた。愛情注いでくれたと、何がなんでも、この親に楽をしてもらいたい。親孝行さしてもらいたいという。そのために私は、頑張りましたと。ちゃんと『落ち』がついてある。そのために私は、頑張ることが出来ました。何がなんでも親を安心させたい。親に喜んでもらいたい。ここまで苦労して育ててくれたんやから、という願いがはっきりしてあるのね。ということを商売人さんに言うたんですけど。
 商売繁盛して、どないするの、という本来の願い。神様にお役に立たせて頂くんじゃということ。社会のお役に立つんじゃ。ぜひともこのことで…。建前で皆、言うんやな。もっと具体にならないかんのにね。ぜひともこのために、例えば、「開教九十年に向かって、ぜひとも私は、このために御用させて頂きとうございます」というような、願いをはっきり持たんと。誰でも商売繁盛は願うんやけれども、神様に届くような願いになりにくい。そういことですね。誰でも願うんやけれども。願いのもう一つ向こうにあるものを、しかっりと持たせてもろうていくいうことが、大事なことかと思います。有り難うございました。

(平成十年九月五日)


人間は放っておくと自己中心になる

 人間は、それぞれの物の見方やら、考え方というものがあります。その見方、考え方によってその人の人生が決まってくるといいますか、方向づけられるいうことがあります。
 今大変な社会問題になっております、毒入りの飲料水やら食べ物。誰かが毒を入れとるんでしょうな。これ、人のことを思える人やったら、とても出来ませんな。人のことを思える人やら、命を大切に思える人やったら、とてもとても、あんなこと出来るはずがない。ということですな。あれが出来るということは、どういうことなんやろうな。
 それで、まあ学校教育で、人を傷つけたらいかんとか、迷惑を掛けたらいかんとかいうことは、段々に教えられとるんでしょうけど、その教えられ方が少ないのでしょうかね。あるいは、それよりも、自分中心の方が強いんでしょうか。人間は放っておくと、自己中心になりますし、残虐性を持っているんですね。


 前も話したと思うんですけど、小学校低学年の子が理科の時間で、蟻さんの事を教えてもらった。隊列を作って餌を運ぶ、巣を作っていくという事を教えてもらった。さっそく、その子は家に帰って、庭に砂糖を置いてみた。そうすると蟻が列を作ってね、砂糖を巣へ運ぶ様が見えた。理科の時間で、教えてもらった通りやなと。何を思たのか、納屋へ行って、灯油を持って来て、蟻の列へピューと掛けて、マッチでボッと火をつけた。蟻がヂリヂリヂリッと、蟻さんが死んでいく様を「ニヤッ」と見て笑うてる。怖いですね。人間放っておくと、こういうところがある。
 そういう意味では教育をされないかん、ということなんですが、何を教育されないかんのか。「人を大事にしましょう、命を大事にしましょう」と学校でも言うてるんでしょうけども、教えてるんでしょうけども、それが建前論になってしもうて、建前論で学校の先生が言うてるだけになってしもうて、ほんとに腹の底から「命を大事にしましょう、人を大事にしましょう」ということが社会全体に無いのでしょうな。
 すると社会というものは利己主義というて、自分中心主義、損得計算。損か、得か、というようなところでしか、物事が見えない。ところが、皆がそうであったら、自分もそうであるのが、当たり前になって来ますな。社会的な物の見方というのは、今言いましたように、利害、損得、自己中心。新聞賑わしてる汚職の問題も、何もかも皆、自己中心ですわな。もう何もかもが、自己中心。銀行でもそう、何もかもが自己中心。社会の大きな諸問題は皆、自己中心である。というふうにその中におったら、それが当たり前にこうなりますな。それが怖い。
 そうすると、そのそういう物の見方考え方で生きてきたら、必ず息詰まってきたり、問題になってきたり、人の差は、それぞれありましょうけれども、そういうことになる。そうすると、そういう物の見方で、すべてを見ようとするのが、また人間であります。


 一つのものを見ても、例えば一輪の花を見ても「これ、なんぼやな」という見方と。「美しいな、誰が生けてくだされたんかな」という見方がある。同じ一輪の花を見てても、見る人によって皆、違うてくる。気の付かない人もいてる。ということは、花なんかどうでもええという生き方をしてたら、花が生けてあるのが見えない。このお広間に、壺で生けてあっても、見えない人いてるんですよ。
 ある人が、「きれいなお花、生けてあるでしょう」と言うと、「どこに」と。「どこに」言うんやからね。「そこに生けてあるが」「はあ、見えなんだ」、意識がなかったら、見えない。見えてても見えない。というふうに、人間の意識いうものは、ものすごいものでして、ここにお花が生けてあっても、花が見えてない人がたくさんおりますし、また、花を見ても「あの花、高いで。安いで」とかな。そんな、物の見方したりな。あるいは、このすすき≠ェありましたら、「ああ、もう秋やな」としみじみ、味合われる人もいてるし。十人十色、その人の価値観。その価値観が、自分が幸せになるか、ならんかの価値観になってきますし、それが自分だけではなしに、その周囲を引き込んでの、幸せ、不幸せになる。
 例えば、今、一生懸命に御用くだされてる、教話集ですが、「また、先生やり出したでー」というぐらいなのか。「あれで、先生儲けはんのやろうなー」と思う人もあるやろうし。何とも思わん人もあるやろうし。「はあ、この一冊の本が、人様の助かるために、先生ご苦労くださってるんやな」と見る人もあるし。十人十色の見方がそこにある。その十人十色の価値観、自分自身の物の見方、同じ状況、同じ物でも、自分の我が心に映る物が、どういうものが映ってるのか、また自分では、どういうものが映ってるのか解らへんねん。周りの状況から、それが当たり前やと思うてる。
 それでおもしろいことには、それは類は類をもって集まる、悪いやつは悪いやつで集まるでしょう。というふうに、そういう社会を形成するんやな。類は類はもって集まる。「先生、なんか儲けようと思ってはんで」「私もそう思いまんねん」と。そんな人たちが集まる。
 そうしたら今度、「あの一冊の本で、人が助かりはるんやな」と思う人たちが集まり、「先生またあんなことしてはるでー」言う人が集まると、また集まる。その集団の中では、それが当たり前になるわな。というふうに、非常に人間というものは助かり難い。そこをお釈迦さんは、「縁なき衆は度し難し」と、きつい言葉ですど、縁なき衆は助けがたい。どうしょうもないと、言葉でも言うておられるんですけど。日々お話を聞かしてもろうてこんと、社会全体のそういう風潮に流れたり、そこら辺でしか物事が見えられなかったり、そうすると、その結果が現れてくるということになりますな。「信心は本心の玉を磨くものぞや」と教えておられたり、「おかげは和賀心にあり」と教えておられたり。和賀心の鏡がどう映るのか。一輪の花を見てどう映るのか、花も映らん人もある。おもしろいもので…。
 「きれいな花やで」とお参りした者同士が言うてある。「え、どこ」「目の前に生けてあるが」「はっ、花あってんな」こんなもんですわ。見えてても見えない。そやから、幸せ不幸せというものは、「私何にも悪いことしてません」言うて、まあ毒入れたらあかんけどな、「何でこんなこと起こりまするやろう」と言われるんやけど、ちゃんと理由があるの、理由がちゃんとある。花一輪も見えない生き方してたらな、そりゃあかんわ。そんなもの幸せになれるはずがあれへん。それで「私は悪いことしてません」、悪いことしてへんけども、花一輪も見えないような生き方してたら、そりゃあかんわな。「この花なんぼかいな」という生き方したら、そりゃあかんわ。別に法律的に悪いことしてないのよ、してのうても、命がダメになっていくの。気を付けさせてもらいたいもんじゃと。信心はそういう意味で、本心の玉を磨いていく。心の眼を開いていく。あるいはまた、心の鏡を磨いていくいうのが、信心でしょうかね。それは、一辺には磨かれへんねん。一生懸命にお参りして、話を何度も何度も聞いていたら、自然のうちに磨かれていくもんですな。そこが大事なことかと思います。有り難うございました。

(平成十年九月六日)

子供を育てる三つの条件

 今の世は知恵の世、人間がさかしいばかりで、わが身の徳を失っている。(『天地は語る』三四七)

 今日の御理解の中に、「今は知恵の世、人間がさかしいばかりで、身に徳を失っている」という御理解がありますが。
 日々、皆さんのお願いやらお届けが、その時代、時代の動きといういいますか、背景を映しているように思う。多いのが、家庭崩壊、自立神経失調症、この頃はちょっと不景気になってきたので、仕事やら、就職の問題。この二、三年急激に増えたのが育児ノイローゼ。育児ノイローゼのお願いが増えましたね。大変なこと。自立神経失調症とも関わりがあるかと思いますが、ものすごく多くなった。
 例えば十人の母親がおって、七人ぐらいはもうノイローゼになってる実体ですね。一体これなんやろうなとお願いしつつ思います。何で、育児ノイローゼになるの、何でなんやろうと。皆、大学まで出てな、勉強ようしてるはずや。それなのに、育児ノイローゼになる。
 皆、頭ばっかりなんですわ。理屈ばっかり。そやから、妊娠中も、また子供生まれた後も、マニュアル通り、本に書いてある通りしか出来ないのね。そればっかり見てるから、それと違うことが起こったり、あるいはその本に書いてあることが、自分に受け入れることが出来なかったらノイローゼになる。子供を育てるいうのはな、「愛情」と「辛抱」とそれから、「天地の親神のお恵みを頂く」いうこと。この三つしかあれへんの。
 それで、命というものは、天地の親神様がくださるものやから、こちらの自由にならんの。ところが、マニュアル通りでやってしまう。若い時、独身の時、子供産んでない時に、人の世話をしてない。第一にな。心くばりが出来てない。人を見てない。義務でやってるだけ。OLなら、OLで、「この仕事はちゃんとしましたで。これはちゃんとしましたで」というような案配やな。
 例えば、パソコン打ちます。経理を付けます。ところが、人と人の触れ合い、人と人との中にあってのことが出来てない。人と触れ合いをしてるようやけども、趣味とか遊びのとこだけ、ちょこちょことしてるんであって、好きなことだけの経験しかない。ほんとの意味の、人と人との関わりが出来てない。今度、赤ん坊が出来たら、べったり関わらないかんでしょう。その人と人との関わりが出来てないもんやから、赤ん坊べったりになると、ヘトヘトになってしまうの。ほんでマニュアル読んで、マニュアル通りしようと思うんですけど、その自分がついていけない。頭で解るのと、出来るのとの違い。それで、ノイローゼになるのではなかろうかと思う。


 「身に徳を失うておる」と教祖様がおっしゃる。「今は、知恵の世、人間がさかしい(賢い)ばかりで、身に徳を失うておる」。徳というのは、頭ではないんですな。「心」と「働き」なんですな。「どうぞお役立てますように」という心と。それから、具体に身体が動くというこの働きなんですな。そうじゃないと、なんぼ本読んでも、勉強しても育児なんか出来るはずがない。赤ん坊は、生き物やでね。もの言えへんからね。泣くだけやからね。理屈は通じへんからね、赤ん坊には。そやからノイローゼになるんでしょうな。ものすごい数が増えて来ました。
 教祖様が言われるように、身に徳を失うておると、気の毒な人たちばっかりやなと。これ、おかげ頂かしてもろうてる者、徳を頂かしてもろうてる者は、その人たちを、ちょっと導いていかないかんなと思います。有り難うございました。

(平成十年九月八日)