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おかげ受けるコツ、落とすコツ

 神は一つ一つに実地の学問さす。その日その日が手習いじゃ。信心も同じこと。(扇町教会日めくりより)

 人間色々と、次々と問題が起こってまいりまして、その問題がどうぞ成就いたしますように、あるいは、解決いたしますようにと、神様にお願いいたします。しっかりお願いさしてもろうて、神様は「何なりとも、どんなことでも願え」とおっしゃる。これを願うたらいかん。あれを願うたらいかん。というようなこと言うておられない。「どんなことでも、何なりとも願え」とこうおっしゃる。一生懸命に願わしてもらうたら、必ずこの神様は、この現れをくださる。これを『験』という。この『験』をどう頂くかによって、本当のおかげになるか。おかげにならんかが、ここで決まってくる。


 例えば今日、こういう社会状況でありますので、なかなか仕事がない。難しい。これはえらいこちゃ。「ぜひとも、仕事を頂きとうございます」ということを必死になって願う。おまんま食いあげやもんな。仕事なかったらな。
 そういう中で、神様がその人に応じた『験』をお与えくださる。そうすると、どういう『験』かと言いますと。思わぬ知り合いにパッタリ会うとかな。「これは神様が出会わさせてくだされたんじゃ」と。そのことにお礼を申して、そっから食い下がっていけれるかどうか。ということ。そういうような『験』の現れ方をしてくださる。
 ところが「仕事ない、仕事ない、仕事ない」だけで、もうそればっかり気に掛かっておったら、神様が『験』くれてはるのに、現れをくれてはるのに、それを見過ごしてしまう。それは自分自身が心配の中へ、入り込んでしまうので見えない、ということがありますね。一生懸命にお願いし、神様もそのように現して下さっておられても、それをよう頂ききれないという『験』がある。
 そうかと言うたら、逆に、ドドッと仕事を洪水みたいに、一度にくる『験』がある。初めの内は「うれしい、仕事がきた」と思うけど。洪水みたいなもんやな、ザーッと。「こんなもの処理出来るか」言うて。せっかく、寄せて頂いたその仕事に愚痴不足が出る。次また、ピタッと止まる。その『験』は、「どうや、今まで仕事に対してお礼申してたか。お断りをちゃんと申してたか」という神様の裏がある。
 「神は声も無し形も見えず」。今日のみ教えのように、「声も無し形も見えず」なんですけども、必ず何らかの、森羅万象の何らかの形をもって、問いかけておられるんですね。真剣にお願いしたらドドッと仕事がくる。これは神様の『お試し』と別の言葉で言うんですけど。
 「さあ、こんだけ与えるが、この仕事に対して、お礼申すかどうか、どうや」。すると、人間って面白いもので、愚痴言うねん。「こんなん、一度にきたかて、出来へんがな」と…。愚痴言うてしまう。「次、止めとき」言うて神様は、ピタッと止めはる。
 「有り難うございます。どうぞこれだけの仕事を、ちゃんとさせて頂きまするように」と、お礼とお願いにまわらないかん。ところが、愚痴言うてしまう。また、これおかげを落とすコツ。ここらが、おかげ受けるコツと、落とすコツなの。
 仕事ないときは「どうぞよろしゅうお願いします。仕事がありません」そうすると、神様は必ず動きなさるからええんですけど。そこから、信心になるかどうかでしょうな。
 これ、『お試し』言いましてね。必ず神様が動きなさる。動きなさったら、『験』を現してくださり、お試しをくださる。大概、九割の人が神様をここで落としますな。おかげを落としますな。よっぽど日々しっかりお話を聞かしてもうて、神様に向こうとかんと、常日頃がね。えらいこっちゃの時ではなしに。常日頃からしっかり神様に向こうとかんと。また、しっかりお話を聞いとかんと、おかげを落とすコツの方へね。スコーンと落ちてしまいますね。おかげを落としたら、本人も苦しいし、神様もお辛いことであります。おかげを落とさんように。
 「神様は声も無し形も見えず」なんですけど、必ず神様は『験』を現してくださいます。『お試し』をくださいます。その時に、愚痴不足になるか、うろたえてるか、常日頃の信心の中身によって、厚さによって変わってきます。大きなおかげを頂きたいと思います。有り難うございました。

(平成十年九月二日)


時々刻々に神様のお力を頂く

 先日お話しました方の話しなんですけど。飛び込みで入って来て、四十歳になって、今日のこういう就職難、仕事難。ぜひとも自分で腕を持たせてもろうて、職を持たせてもろうてなんとか、ここで頑張らせてもろうて、四十歳から、これからの後の人生しっかりと歩ませて頂きたい。どうぞ就職のおかげを蒙りたいと。自身としては居酒屋を持たせてもらいたいと。
 そういう願いを持って、飛び込んで来た人の話しをしました。それから、数日経ちまして、「先生有り難うございました。寿司屋さんで就職決まりました」と。寿司屋さんの方では、求人するにしても、二十歳そこそこの若い子を入れた方が使いやすい。四十のおっさん入れたら使いにくい。しかしそれでもいい。来てもいいと言うて頂きました。有り難うございました。ということでお礼に来られました。
 そして、自分は明日から、もう寿司屋で食べさせてもらえるから、ということで泣け無しの千円をお供えなさったいうことのお話しなさいました。それから、ずっとお仕事が続きますようにというご祈念をさして頂いとりました。


 昨日、その方がお参りなさいました。交代、交代で休みがあるいうので、お参りしてきました。とにもかくにも、寿司屋に就職出来たこと、先ずお礼申したんですけど、「先生、辛いわ」言う。 「分かってる。私は四十のおっさん。それと二十歳そこそこの小坊主と一緒に、こ突きたおされる…」
 「職人というのは、二十歳であろうが、四十であろうが年齢に関わりないで」
 「実は、向こうの社長もそんなに言いました…」。
 分かってるけども、こ突きたおされる…。「何考えとんねん…」いう案配。
 普通会社へ入社しましたら、研修期間いうのがありますわな。それで、現場に行きますわ。三ヵ月なら、三ヵ月という研修期間があって、それぞれの現場に行きますわな。寿司屋さんなんか、わずか二日で説明終わりなの。すぐ店なの。すぐ現場や。お客さんどんどん来る。注文一つ取るのかて、だいぶ大きな店なんで、こっちも聞いて、あっちも聞かなならん。モタモタしてる間に、どっちの注文か解らんようになってくる。「何やっとんじゃ」言うて。怒りたおされる。
 ほんなら、こっち洗い場には食器がたまっとる。どっちの言うこと、聞いてええのやら、やってええのやら。ヘトヘトですと。ほんでもう、こ突きたおされる。二十歳そこそこの子と同じようにやられてしまう。「解ってるのやけど、辛い。」「はあー。」ふにゃー、となってるのね。無理ないことや。
 それで、彼に言うたんです。
 「そうやな、その通りや。しかし、あんたには願いがあるんやろう。そりゃ四十になって、今から、全然違う業種な。職人いう業種入ったら、そりゃ大変や。まだ、十五、六から入ったら、覚えるのは早いけどな。四十のおっさんになったらな。もう固まってしもうとんねん。人の倍以上かかるで。慣れたことをやるんやったら、若いもんに負けへんけども。新しいことを四十になってするいうことは、そりゃ、並大抵のことやない。やる気だけではどうにもならんで。」
 「そうです」
 「すぐ現場やろ」
 「現場です。アホ馬鹿ですわ…」
 もうヘトヘトです言うから、
 「あんた願いあるんやろう。願いしっかり忘れたらあかんで。絶対、願い忘れたらあかんで。願いは『居酒屋』を持ちたいという願いやったな。その願いをしっかり持たせてもろうたら、辛抱出来る」
 と同時に人間ちゅうのは、頭で解るのと、実際その場にあって、ボロくそにやられたら腹立つのと、情けないのと…。「ほんまに情けないですわ…」。四十のおっさんがボロクソにやられてる。年下のもんに。向こうは職人や、年期、入ってる。
 「年下のもんにボロクソにやられるの。解ってるけど、辛いやら、腹立つやら、しんどいやら、どないしたらええのやら…。」
 「その通りや。さあ、解ってるけど、実際とは違うやろう。そうやな。そこで神様にお願いして、お力を頂いていくねん。自分ではどうしようもないねん。解ってても、ヘトヘトになってしまうねん。就職出来た時うれしかったやろ」
 「うれしかったー」
 「次現場になったら、ヘトヘトやな。そうや、そこや。これからな、神様にお力を頂いてしのがせて頂くんや。とりあえず三ヵ月辛抱し。三ヵ月経ったら店全体の動きが解ってくる。見えてくる。まあそれまで、こ突きたおされるやろう。現場やからね。どうぞ、辛抱出来るように、私もお願いさしてもうてるから、あんたも、朝、職場へ出るときに『どうぞ辛抱させてください』言うて、神様にお願いして職場に入らせてもらいなさい」言うて。
 「はあ、こんなキツイとは思いませんでした」
 「しかし、願いを持たしてもらうんやからな」ということ。
 これ、頭で解るのと実際との違いね。みなこうしたらええ。ああしたらええと頭で解るの。それが、実際になってきたら、そうもいかん事実がそこにある。それを乗り越えるお力を頂く。人間って弱いんですよ。頭で考えてる時はね。しんどいのは関係ないからね。ところが、事実になってきたら、もうそうでなくなる。


 結婚なんて一番よう解る。「一緒になりたい。一緒になりたい」言うて。ところが「こんなつもりじゃなかったのに」となる。夢と現実違うわな。「子供欲しいわ。かわいいわ」。親になってみ、ヘトヘトにならないかん。「人様が抱いてる子供みたら、かわいいな、あんな子。欲しいな」。泣きはしよるわ、熱は出しよるわ。乳はちゃんと飲まないわ。ノイローゼにならんなならん。ここやねん。「ええな、ええな」と、そのことに当たるのとは違うの。そこで神様のお力を頂かしてもろうて、お働きを頂いていかんと。「ええな。ええな」では絶対無理。
 人間ってそう、解っているけど出来ない。育児かてそう、解ってるけど出来ない。育児ノイローゼになる。お力を頂いて無いから…。それで、「まんまんちゃん、あん」ぐらいわしてるのね。それぐらいではほんとに神様に通じないからね。「どうぞ、お願い申し上げます」という命を掛けた向かい方をせんと、「解ってます。まんまんちゃん、あんしてます」という程度の信心ではそれは無理です。潰れていきます。どうぞおかげを蒙ってもらいたいものじゃ、と思います。有り難うございました。

(平成十年九月三日)

左回り、右回りお働き

 天地のお働きの中に、『左回り』『右回り』いうことがある。「こっちは、左前ですわ」言うたら、商売があかんようになってることとして使います。この『左回り』と『右回り』というものがありましてね。
 例えば、今日身体の、お話が出てましたが、家族一人が患う。そうしてくると、仕事が滞る。看病で疲れる。人間関係が悪くなる。バラバラになる。これ、全部『左回り』。
 次、『右回り』は、健康である。仕事に精が出る。稼ぎが良くなる。家の内は賑やかになる。人が寄ってくる。これ、『右回り』な。というふうに、『右回り』と『左回り』が天地の中にある。
 お商売でも同じこと。ちょっと売れんようになる。不安が出てくる。仕入れを間違うてくる。お客さんは来んようになる。資金がなくなってくる。イライラする。これ、全部『左回り』。連鎖反応を起こすんでしょうな。ええ事でも悪いことでも。連鎖反応を次々起こして、良いことは良いことを生み出してき、悪いことは益々悪くなる。


 例えば『左回り』になりかけた時、病気になる。生身やから病気になる時がある。さあそこで、神様病気をお与えくだされた。この病気をどうとらさしてもろうていくか。病気は、その病気の原因とは違うんですよ。病気が起こったことを、どうとらえさしてもろたら、ええのかと。ここでしっかり神様に向きます。ご無礼のところをお詫びし、改めるところを改まり。ここで、家族一つ心にならしてもろうて、それに向かわして頂く。すると、『左回り』の原因がかえって『右回り』の原因になっていくの。あの難儀があったから、あの苦労があったから、我々、今これだけようならしてもろうているんですと。『右回り』の原因になる。
 ところが、普通、放っておくと、『左回り』は『左回り』のままに、ずっーと、グルグル、グルグルと余計に連鎖反応起こす。ここが、さてという時に、間に合う信心をさしてもらわないかん、いうのはここなの。日頃からお参りしておりましても、「まんまんちゃんあん」ぐらいやったら、もうそれで、『左回り』の連鎖反応の中に、ダダダダッと入っておる。もうどっからとっても、あかんいうやつや。グルグル、グルグルなってしまう。ここが難しいところ。
 ですから「神様は何を教えてくだされているのか」いうところへ、腹入れをさしてもろうて、改めるところを改まらしてもらう。お商売では、不景気である、仕事がない、もうそれだけで、次のうろたえが出てきますわな。
 あるお方にこういうことを言うた。「さあ、この不景気を宝物にさしてもらわないかんよ」と。さあ、家族一同心を合わせて、今まで、順調よういってる時は、好き放題それぞれ、バラバラの好き放題のことしておったけど、「さあ、このことを通して、家族一同心を合わせて、団結の出来るおかげを蒙らないかんよ」と言うことを、申したんでありますが、なかなかそれも日頃の信心をキッチリさしてもろうとかんと、なかなか出来にくいものです。余計うろたえが出る。
 前にも話しましたが、教祖様が明治五年の神前撤去の話。お上の方から「拝んだらいかん」言うてお差し止めなった。その時に、「家内中、神のことを忘れるな」こんな時に、神様のこと忘れてどないすんねんなと。「人をあてするな。家内中、仲ようせい。」このように仰せになっておられる、正にその通り。さてという時に、間に合わさして頂くご信心を、さして頂きたいものじゃ、と思います。有り難うございました。

(平成十年九月四日)