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屋根の上にいてるのは犬?

 昨日、四条畷教会で御用さしてもろうてる長女の清子の、四人目の子のお乳検診で、近所の北野病院へ連れて行きました。四人目は男の子で、昨年の十一月生まれですので、ちょうど八ヵ月ぐらい。ご存知のように病院いうのは、ようけの人がいてて、ローカで待合いをしますわな。産婦人科やから、来てる人は皆、産婦人科ばっかりで。赤ちゃんの関係ばっかりで、お子さん産んだ人が殆どでありますね。
 そういうところで待合いをしておりますると、隣のご婦人が、清子を見て色々と赤ちゃんの育て方のアドバイスをしてくださった。清子も「はい、そうですね。そうですか」と聞かしてもうてたんやて。隣に座られたお方から、赤ちゃんの育てるアドバイスを受けた。ご親切にしてくだされた。
 そうしておるうちに、検診カードというものを記入していった。名前とか、今の状況どうやとか、今の子は第何子やというようなことをカードに書いていった。隣のアドバイスをしてくれたお方も、清子もそれに書いていった。清子は第四子と書いてる。先ほどから、アドバイスしておった隣の奥さんがチラッとカードを見た。「えらい失礼を致しました」言うてな。清子が「いえ、いえ有り難うございました」言うて、もうアドバイスしはった人が恐縮してしもうてな。という話を、帰ってからしてくれました。それを聞いておもしろいなと思いました。
 このご親切が有り難い。この頃、四人も子供産む人が少ななってきたから。それに若くして、子を産んでるものやから、第一子の子やと思われても、当たり前なんですけど。それが親切に教えてくださり、また、それを「はい、はい」と聞いておった清子も、おもしろいもんじゃなと思う。
 さあここで、ヒントにならしてもらいますことが、「もう解ってますわよ。そんな事言われんでもな、私もこの子四人目ですねん」と言うてしまえば、それまでのことで。「ああ、それは失礼しましたね」とこうなってしまう。それを「はい、はい」と聞かしてもらえたいうことは、どういうことなんじゃろう、と思わさしてもろた時に、その相手方のご親切を有り難う思う。いうことが一つ。相手の、その見ず知らずの人に、今同じように病院に来て、育児やら、お乳やら、そういうことで、同じ立場にいてる。そういうことで、ご親切に色々な事を教えてくださる。そのご親切を頂かしてもらう。ということと。もう一つあるの。
 確かに四人まで産ましてもろうた。その人は二人目か、何人目か知らんけども、こっちは四人まで育てさせてもうたけれども、自分の今までの知らないことがある。自分は知ってると思たら大きな間違いなんですね。「私は、経験者です。やってます。出来てます」という思い、これが危ないんですな。「やってます。出来てます。知ってます」がネ。
 よう昔から言われる「負うた子に教えられ」という言葉がある。おんぶした子供に逆に教えてもらえると。「解ってます。知ってます。私の方が経験者です」という思いを持ったら、それで、止まりや。どういう事を教えてもらえるか解らん。常にこの謙虚な心持ちと言いますか。「知ってる、解ってます」というのじゃなしに、その日々の生活の中で毎日、毎日が新たなんですから、その新たな中で教えてもらえるもの、気付かしてもらえることがある。


 夏休みもうそろそろ、終わりで。子供たちが宿題に追われとるんですけど。夏の休みじゃなしに、春休みの時でしたか…。
 小学校の低学年の子が、図画の宿題をして、学校へ持っていった。その絵はどういう絵かというと、屋根に動物が日なたぼっこしてる絵なの。
 先生が「よく画けたね。これは、あんたとこの猫?。お宅の猫ですか。あんたとこで、こうてるの?」と聞いた。
 するとその子供「これ、猫違う。犬や」言うて。
 「あのな、屋根にいてるのは、猫なのよ」言うて…。
 「これ犬や」
 と譲れへんねん。その子供。小さいから、動物画くけど、犬も猫も同じような絵になるんやな。 「これ猫違う、犬や」
 「屋根にいてるのは、猫や」
 「いや違う」
 そこ譲れへんねん。しゃあない、我の強い子やなと。
それでしばらくして、家庭訪問いうのがありますな。それで家庭訪問して、「あっ、そうや。あれ犬やった」と解った。
 というのは、その子の家は、高い堤防の横にあって、そこに板を渡してあるの。屋根まで。漁村でようそんなことありますやん。高い堤防があって、家があって屋根があって、そして、板を渡してある。奥さん方、布団干したり、洗濯もの干したりしてるの。犬もその板渡って、それで日なたぼっこしとってん。
 学校の先生、「ああ、自分の固定観念だった。自分が教えてやる、屋根に登るのは猫。あかんな、言うて気付きました」と正にその通りでな。解ってます、知ってます、屋根に登るのは猫とは限れへんねん。犬も登りよるねん。というふうに、解ってます、知ってますいうのが、危ないな。なんでも新たな事として、子供の言うことにも耳を傾けさしてもらうことに、ならしてもらうのが大事。


 清子がどこまで、解って聞いたかなと。「私はもう四人も産んでるの。うるさいわね。」という程度で聞いたのか。「ああ、ご親切に、有り難うと思うて聞けたのか」それとも「また新たなこととして教えてもらえるかな」と聞けたのか。さあどれで聞けたのでしょうか。それによって、清子の信心の度合いが解る。どいうこととして聞けたのか。
 「うるさいわね。私四人も育てるのよ」「まあ、そうでっか。はい、はい」となるか。「はあ、ご親切に、有り難う」と思うたのか。「新たなことをまた聞かしてもらえるかなあ」と聞いたのか。さあどれで聞いたでしょう。「おかげは和賀心にあり」ということでしょうね。有り難うございました。

(平成十年八月二十八日)


冬になっても夏服着てるような信心

 結構の結構知らず、わるけりゃわるいで不足をいい、よけりゃよいで不足になり、勿体ないが判らぬは信心でない。(扇町教会『一言一句 日めくり』より)

 暑い、暑いと思とりましたけども、朝夕が段々と涼しゅうなって来ました。有り難いなと思いました。
 今朝、五時ぐらいですかな。ふと目が覚めて、お腹へタオルケットが掛かってないので、えらいこっちゃ思うて、ゴソゴソと探しました。ちょっと前は、蹴っ飛ばしてたのにね。人間って勝手なものやな。要らん時は、蹴っ飛ばしてます。ほんで「えらいこっちゃ、涼しい」と思うたら、蹴っ飛ばしてるのをお腹に掛けてる。「まあ、人間って勝手なもんやな」と思いつつ、お腹冷やしたらいかんわと思うてまた、またかぶらせてもろうた。
 そのように、時々刻々にこう変化をしていっている。「暑いな、暑いな」と思うてたのがもう、ズーッと変化をしてね。変わっていっている。不思議なもんじゃなと思う。
 天地が変わるだけではなしに、我々も実は変わっていってるんですな。間違いなしに。昨日と今日と比べたら、何にも変わりがない。気温みたいなもの。昨日も三四度、今日も三四度。とかね。一つも変わりないように思うようやけれども、ふと気が付くと秋風が吹いてるように、昨日の自分も、今日の自分も、変わらんように思うのやけども、ふと気が付いたら、ええ年しててね。あっちゃ向いて、こっちゃ向いてしてる間に一年経ってしもうて…。
 世の中もどんどん、どんどん変化してますな。もう、これだけニュースがあるものじゃなと思うくらい様々なニュースがある。それをテレビで見たり、新聞で見たりして、評論家みたいになっておるんやけれども、実はその社会に生きてますんやからね。もろに影響を受けてる自分であるということ。大きな社会で言えばそういうことなんでしょうけど。自分が変わっていくことが気が付かないんですけど…。


 実は身の周りにおいても、家族においてもずんずん変わっていってきておる。例えば田中さんやったら、おばあちゃんになったんやね。変わったんですよ。いや、変わってへんけど、実はおばあちゃんになった。おお変わりしてるの。というふうに、刻々に命というものは、変化していってるんですね。ところが、実生活の中では、変化してきてるという、実感が持てんのが事実やね。どんどん、どんどん変化してきてる。頭で考えたらそうなんじゃ、ということなんですけど、実生活では、余程大きな、ドカーンと大病するやとかな。肉親を失うやとか。そういうことの変化なら「あの時な」という時があるんですけども。刻々に変化してること、頭で解るんですけど、実感としては、なかなか持ちにくいものがあります。
 やはり、それを持たしてもろうていかんと、変化してるのに、気付かずに、夏から、秋になり、秋から冬になってるのに、夏服着てるみたいなものでしょうな。気温は「おお、寒むー。間物(あいもの)出せよ。冬物出せよ」と解るんですけど…。人生というものは気温と違いまするからね。しかし人生にも、変化していってる。冬に向こうてるのに、いつまでも、夏物着てたらそりゃ大騒動せんならん。そういうふうに変化してきていってる。
 「『日々がさら』でございます」これは三代金光様が、特におっしゃっておられるんですけど。「日に日に新たに、日々がさらだ」とおっしゃってる。昨日と違うんだ、とこうおっしゃってる。「『日々がさら』でございます」と。
 三代金光様は、十四才のお年から、八十四才までの七十年間を、御本部お広前のお結界というところで、毎日、毎日座りきって、お取次ぎの御用のなされた。七十年と言えば大変な年月でありますが、「『日々がさら』でございます。ですから、何十年御用いたしましても、日々でございます。『日々がさら』でございます。」とおっしゃっておられます。七十年間座り続けられて、皆さんのお届けお願いをされてる。
 なかなか、これ簡単に申しますけど、『日々がさら』と言葉では解るんですけれどもね。実生活の中では解りにくい。よっぽど神様に、我が心を向けとかんと『日々がさら』にならん。しかし、先ほど申しますように、いつまでも夏服着てて、冬になっても夏服着てるようになってしまう。いうことですな。それで、結局おかげ落としてしまう。信心してても、おかげ落としてしまういうこと。


 私も皆さんのことをカードで毎日、毎日、一ヵ月間同じことを、同じ人の事をご祈念をさしてもうてる。昨日と同じカードや。同じやから「まあええやん。昨日もお願いしたやん。同じ人や。同じ事柄やんか」ということになりやすいんですけど…。
 今月今日『日々がさら』、その人のことをね、カードでお届けなさったお方の事を、今日のこととして、新たなこととして、神様にお届けお願いを申し上げる。「昨日したから、もうえんじゃと。同じことなんじゃ」いうことと違う。そうであるから、ご信心も昨日お願いしたから…。ということではなしに、今日、改めてお届けお願いを申し上げていくご信心をさしてもうていく。そうすると、知らず知らずの内に神様が、変化してるその中で、ご都合御繰り合わせをずっと付けていってくださる。怖いものです。日々いうものは非常に怖いものじゃと思います。「日々がさら」と。今日の「日めくり」のみ教えにあるように、当たり前になってしもうてると、ほんとに怖いことになってしまうなと思います。有り難うございました。

(平成十年八月二十九日)

ええ種蒔いてくれてるんやな

 信心は何を目的にすればよいか。病人は痛いのを治してもらいたいと願い、健康な者は、作物がよくできるようにとか、商売が繁盛するようにとか願って参るが、それは一時のことである。信心は、末の安心を楽しみにしないと続かない。末の安心のためには、自分一人がおかげを受けただけではなく、子孫に伝わる信心をすることが大切である。家庭が円満で、主人が信心しなければ、子孫には伝わらない。痛いのを願うのは信心の糸口ではあるが、それだけでは、治ればお礼参りをして、その後は参らないことになる。自分の心を改めて、よい子供を得ることを、信心の第一の目的としなければならない。一代の信心は神が喜ばれない。(『天地は語る』三一〇)

 私の御用の中で、全国色々な所へ講演やら、講義やらで行かしてもらわないかんことがございます。色々とあちこち、ウロウロするんですけど。
 講演終わった後、お話終わった時、必ず二、三人の方が寄ってきてくださいまして。「はあ、先代先生にお世話になりまして…」言うてご挨拶に来てくださる。どこの会場に行きましても、どこの教会に行きましても、数人のお方がそういうふうに、先代、私の父のことを言うてくださる。そやから、その息子がお話に来たんやから、何がなんでも、これは聞かしてもらわないかん思うてな。野を越え、山越えして、田舎行ったら正にそう。この頃は車でシューと行けるけれどもね。野を越え、山越えしてお話を聞きに来てくださる。それで、時々思う。「有り難いこちゃな。ええ種蒔いてくれてるんやな」と思う。「ええ種蒔いてくれてるんやな」と。


 今朝起きまして、表を開けましたら、パトカーは止まっとるは、警察官十数人。教会の前の道路にチョークで色々と書いてはんの。ここに、証拠があるというやつやな。血液がついてある。血があちこっち、人が倒れた格好にチョークで書いてある。「どないしまいてん」言うて、お巡りさんに聞いたら、ケンカがあったと。ただ単なるケンカ違うわ。十数人もお巡りさん、集まって。鑑識いうて、調べる人も来て大変なことでした。防弾チョッキも付けてましたね。
 誰でも腹が立ったり、ケンカすることもあるんやけども…。これも、親から順番に受けついどんねんなと思う。恐らく殺人に近いことが、行われたんでしょうな。そうせんと、十数人もお巡りさん来て、あるいは鑑識が来て、パトカーが二台も来るということはない。


 やはり何を子孫に残さしてもらうか。財産も大事やし、家も大事やし。色々なこと大事なんですけども、やはり「徳」を残すのが一番よろしいな。お金はやがて無くなってしまう。そのお金残してもその子供に値打ちなかったら、逆にそのお金が邪魔になる。マイナスになる。
 私は、親から残してもろたん、破れかかった羽織一枚や。それしかあれへん。破れかかった羽織一枚や。他何にもあれへん。「あそこの通帳にようけ入ってるからな」言うて、そんなもんあれへん。何にも無し。
 しかし、有り難いことに、何処へ行かしてもろうても、もう父親が亡くなって二十年以上経つ。あるいは、直接の御用せんようになってから、三十年以上経つ。三十年以上経っても、何処へ行かしてもろうても、数人のお方が、もう、向こうさんもご老体になっておられるんですけど、「はあ、先代先生には、助けて頂きました。ええお話聞かして頂きました。」言うて、未だにお礼を言われる。「ええ種蒔いてるな」という思いをしみじみとさしてもろうてます。
 今日の御理解の息の長いおかげを蒙っていかんとな。よい種まきのおかげを蒙っていかんと。何を残していくか。「お徳」しかないなという思いをさして頂くと同時に、私が子供や孫に何残すかという、逆の立場やな。逆の立場で、今度は自分がおる。親から受けた徳を落とさんように、次の代へまたこの徳を伝えさせて頂けたらなと、日々願うとります。有り難うございました。

(平成十年八月三十日)