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「する」と「させて頂く」の違い

 商売するというから神は見ている。商売させていただくという心になれば、神はつきまとってさせてやる。(『天地は語る』二八二)

 農業するには、もみを水につける時、もみをつけさせてくださいと願い、苗代へまくときは、天地金乃神へ、あなたのお土地にまかせてくださいと願え。また、苗の生長と、病気、害虫のお取り払いを願え。田植えには、苗を三把ほど神に供えて、今から早稲植えをさせてくださいと言って願え。供えた苗をお土地に植えて、根つき、生長を願え。また、害虫、病気のないように、先では豊作をいただかせてくださいと願え。そのほかの作物を植え付けする時も同じように願え。よくよく心得て、天地のお徳をいただくがよい。(『天地は語る』二八三)

 孫が反応を示してくれて、ニコッと笑うてくれて、ほんとに天使のようなかわいい顔して、ニッコリと笑うてくれて、喜びを体中で現してくれて、ああ、かわいいこっちゃなと思わさしてもらう。まあ、その孫見てて、お乳飲ましてもらわなどうもならんし、おしめも替えてもらわなどうもならんし、向きを変えてもらうのも、人のお世話にならないかんし、服を着るのも、もちろんのこと、風呂へ入るのも、何もかも、人のお世話にならんと生きていけない。
 そういうことで、当たり前のように周囲が世話をすんるんでありますけども。さあ、今度逆にミルクを飲ましてると思うて、飲ましたらどうでしょうな。飲んでくれなきゃ話しにならん。なんぼお母ちゃんが、口へ含まそうとしても、ゴックンしてくれな、あるいはミルク作って、ほ乳瓶を暖めて、口元へ持っていっても「イヤ、イヤ」したら終わりや。いらない言うたら終わり。ゴックンしてくれなきゃ話しにならん。
 こうして見たときに、親があるいは、周囲のものが世話をしてると、こう言うけれども、確かに世話をしなきゃ子供、赤ちゃんは死んでしまう。そんなら、世話をしたらいけるのかいうたらそうと違う。その何にも出来ない赤ん坊が、ゴックンをしてくれな、あるいはうんちをしてくれな、オシッコをしてくれな、どうすることも出来ない。
 さあそこで今日のみ教えが大事。自分がやらな、田植えも自分がせなあかんの。お商売も自分がせなあかんの。誰もしてくれへん。自分がせなあかんの。間違いなしに。しかし「『させて頂く』という心なかったらいかんよ」と言われるのはこういうこっちゃ。
 赤ん坊の世話も、自分がサッサとせないかんねん。決まってある。世話せんと死んでしまいよる。お乳やらんと死による。その通りや、そんなら自分がしたらそれで出来るのか言うたら、出来へんねん。「ゴックン」してくれな出来へん。お商売でも何でもそう。
 自分がせないかん。自分がせないかんのやけども、自分で出来るんかと言うたら、ほんとは出来へんのよ。ほんなら自分が何出来るのか言うたら、ミルク作るところまでは、口に含ますとこまでは出来る。飲んでくれなきゃ出来へんの。お商売でいうたら仕入れまで出来るの、売れなきゃ話しにならんの。お百姓で言うたら、種まきまでは出来るの。種まきしてお世話までは出来るの。実ってくれなきゃ話しにならんの。
 こういうふうに見さしてもうたら、「する」と「させて頂く」の違いがここで解ってくるでしょう。今日のみ教えの「する」と「させて頂く」。みな自分で出来るとか、自分ですると思うて我が勝手にするので難儀してくる。「する」と「させて頂く」。させて頂くには「どうぞ、よろしく…」と、お願いを申し上げていく。一つ一つお願いを申し上げていくいうのが「させて頂く」ということ。「我が力でございません。どうぞ、よろしゅうにと…」これが「させて頂く」ということ。
 これ出来だしたら、次、間違え易いところは、お商売で言うと解りやすい。「これはあかん、とても売れへん。無理や。どうぞ神様お商売させてください」とお願いするわな。ここまでは何とかなる。いよいよ息詰まってきたら、「どうぞ…」と命がけや。こうなったらな。それでおかげ頂くとする。それで儲かったのは自分のものやねん。さっきの「させて頂く」どっかいっとんねん。人間ちゅうのはおもろいもんやな。これでは神様に信用無くなってまうわな。息詰まってどうしょうもなくなってる時は「させてくださいませ」と願う。「それならしてみいや」と。「よっしゃ、よっしゃ。それなら力貸してやろうと」こうなる。そうしたら、神様がそうしてくださる。「有り難うございます。売れました。」そこまで有り難いねん。売れたもんは、ワシのもんやねん。ええ加減なもんや、人間ちゅうのは。


 そこが今日のみ教えの「田植えをする時、三把を供えて」とおっしゃる。具体的に、「三把を供えて…」と。また、刈り入れをした時には「有り難うございます」と。お礼申し上げる。それが大事やな。それやらなかったら、させて頂くにならんわ。都合のええ時だけ「させて頂く」「どうぞよろしゅうお願いします」になるねんな。もうそういう意味では、人間得手勝手ですな。
 しかし実際に得手勝手なもんなんですけど、実際赤ん坊の世話をしてみて、確かにミルク作るのこちらかわからん。その通り。そうせんと赤ん坊が死んでしまうわな。しかし、飲んでくれなきゃ話しにならんということ。それはなんぼ無理矢理に口に含ましても、その赤ん坊の頂いた命が、ゴックンとしてくれなきゃ。また、その飲んだお乳が体の中でちゃんと消化して、血となり肉となってくれなきゃ、生きていくことが出来ないのね。なんぼかわいい子や、かわいい孫や言うたかてあかんの。「アババ」と言うて反応してくれて嬉しいけれども、冷とうなったら「アババ」言うてもダメね。皆、死なしてから気が付くの。商売でも失敗してから気が付くの。そうならんうちに皆、気を付かしてもろうて「させて頂く」ということを、しっかりと腹入れさしてもらうことがいると思います。有り難うございました。

(平成十年八月二十五日)


まめ(健康)なとも信心の油断をすな

 障子一重がままならない人の身である。(『天地は語る』五一)

 猿も木から落ちる、弘法にも筆の誤りという。木に登っても、危ない危ないと思っていると、用心するからけがはないが、少し上手になると、大胆になって大けがをしたり命を落としたりする。慢心は大けがのもと、健康であっても信心の油断をしてはならない。(『天地は語る』二六八)

 娘の浩美が食中毒になりまして、自分一人の問題だけではなしに、赤ん坊がお乳を頂けない。また、何もかもが総狂いになる。「私だけの問題です」いうのは世の中有り得ないことね。「私だけです」いうのは絶対有り得ないこと。皆様、関わり合うてるいうこと。自分がおかげを受けるいうことは、皆がおかげを受けていくことになる。自分がえらいことになってくると、皆が、えらいことになってくるということを、今回のことでよく解らしてもらうと同時に、何が起こるかわからんいうこと。


 「障子一重がままならない人の身じゃ」とおっしゃる。丁度、目の悪い全盲のお方が、杖なしで走ってるみたいなもの。毎日生きているいうことは。何がどう起こってくるか解らん。どういうことが起こってくる。そやから、日々のお願いをさしてもろうて、スッーといってるのが当たり前ではなしに、無事であったことが有り難い。また、今日も、無事に過ごさせて頂くようにとお願いを、日々さしてもうていかんといかん。
 神様に危ないところを、大難は小難に、小難は無難にお祭り替え頂かないかんし。もう、ドボーンとはまるところを、ハッと止めてもらわないかんし。オットットット、いうようなことがなんぼでもある。そのオットットの一つが間違うと、自分の人生も総狂いなら、周囲の人生も総狂いにさしてしまう。
 「まさか!」とこないだの毒入りカレーもそうや。「まさか、毒入りなんて!」誰が想像するんや。毒入れてるなんて、誰も想像せえへん。というふうに、「何!」というようなことが起こる。そやから、日々のご都合御繰り合わせを蒙よう、自分だけの問題やなしに、皆、おかげ蒙らないかん。
 ところがそのことが、「ああ、そや、そや」ということだけで、終わってしまう人が殆どで、その事を腹入れさしてもろうて、日々に「どうぞ、今日もよろしくお願い申し上げます。家内一統安全でございまするように、今日も何か起こりましたら、大難は小難、小難は無難のお祭り替えを蒙らせて頂きまするようにと。仕事の上にご都合蒙らして頂きますように」というお願いを日々にさしてもろうて、また、その晩にお礼を申さしてもろうていく。
 そうせんと、なんぞ事が起こった時に、間に合わへんねん。「えらいこと起こりましてん。」神様にしっかり腹入れ出来てないものやから、お願いせないかんの解ってるけど、どうお願いしたらええのか解らへんし。オロオロ、オロオロして沈没してしまう。まあ、殆ど見てたら、そうですね。ここ一番おかげ頂かないかんのに、ここ一番全部おかげ落としてしまう。いうのが多い。それは常日頃、神様につながってへんの。丁度、勉強みたいなもの。
 試験くるのは、わかってんの。試験はくるの解ってるからええけれども、「まあ、ええわ、まあええわ」やってるうちにさあ、さあ、二日前になった、一日前になった、さあ、勉強机に座ったけれども、どこからどう手付けてええか解らへん。結局、机の上片付けて終わってしもうた言うてな。そんなことがある。日頃、勉強癖付いてないから。「せないかん、せないかん」で疲れてしもうてな、結局は勉強出来ずじまい。勉強ぐらいやったら、次の試験、頑張ったらええのやけども…。
 人生は、目の見えないお方が杖なしで走ってるようなもの。「あの時がな…」と言うことがある。「あのためにな…」と総狂いになってしまうことがある。自分だけの総狂いだけやったらええけど、他の人の、周囲の人生まで、総狂いにしてしまう。そういうことが解らん。解ってもわからん。「神様に、常日頃から心安うせい」とおっしゃるように、ほんとに神様に日頃からお礼とお願い、また、お詫びをキッチリさしてもらわないと、さて、言う時に間に合わんことになってしまいます。「まめ(健康)なとも、信心の油断をすな」とおっしゃるのはそういうことかと思います。有り難うございました。

(平成十年八月二十六日)

良い展開のおかげを蒙る

 昨日、ご信者さんの初孫さんが、お誕生になられて有り難いことであります。
 天地の間に生かしてもうてる人間というのは、固まってないというか、固定してないのね。次々、次々と展開をさしてもうていってる。皆、事柄が起こったやとか、孫が出来たやとか、学校へ行ったやとか。そういう事柄が起こったというふうに見えてるけど、事柄が起こったんじゃなしに、展開さしてもうていってるということ。次々、次々と。親にならしてもらうということ。あるいはまた、おじいさん、おばあさんにならしてもらういうこと。ずっと、立場というか、人生がぐるぐると展開さしてもうとる。
 この展開の時に大事なの。展開さしてもろうて、それが良い展開にならしてもろうていくか。悪い展開にならしてもろうていくか。これ、運命とは違う。世間はこれを運命じゃと言う。違う。その良い展開にならしてもらえる信心を、していかないかん。
 例えば大根なら大根という、素材をもらえるんやな。その素材をどのように、使わしてもうていくかいうことが大事なこと。
 私は、結婚式によく招かれるんですけど、あの時に「こいつと別れたろう」と思うて夫婦になる人おれへん。皆から「おめでとう、おめでとう」言われて。ところが、夫婦にようならんと、良い夫婦にようなれんと、スッタラもんだらして、大騒動して別れないかんとなる。「夫婦でなかったら、結婚してなかったら、こんな苦しみ味わんでもええのに…」ということになる。そうすると、結婚いうことは、めでたい、めでたい言うけど、めでたい結婚にさしてもらうかどうか、ここが、大事やねん。そこに日々の信心の稽古がいる。結婚さしてもらうのは、有り難いことなんやけど、そういう素晴らしい結婚に、家庭にならしてもらっていくいうことが、大事なことなの。展開さしてもろうていく、その中で良い展開をさしてもらう。運が悪いとかと、そんなのと違う。良いことにならしてもうていかないかん。
 そこで、「おかげは和賀心にあり」とか、「信心は日々の改まりじゃ」とか、「今月今日の信心の稽古じゃ」とか言われるのはそういうところなの。「なんと私は不運なことでしょうか」そんなの違うん。それは、結婚の時は「おめでとうございます。有り難うございます」と、ほんとにめでたいことにならしてもうていく、信心の稽古をさしてもうていかないかん。
 その信心の稽古いうのが、自分の改まりと同時に、神様のお働きを頂いて、ご都合を頂いて、「よい二人三脚をさしてもらいますように」ということやな。また、子供が出来たら、「どうぞ、よい親にならして頂きますように」と。「子供と良い関係をならして頂きますように」と。また、孫出来たら、孫との関係が生まれてくるわな。「えらいもの生まれてきて…」。これはあかんねんな。そうならんおかげを蒙らないかん。
 「おめでとうございます。おめでとうございます」言うてるんやから、「おめでとうございます」にならないかん。また、ならしてもらわないかん。それには、信心して徳を積ましてもらういうことと、お話を聞いて、どう現さしてもうらうことが、一番ええことなんじゃということ。生み出してくるおかげを蒙っていかんと、めでたいことが、めでたいことにならん。
 「もうこれやったら、生まれなんだらよかった」。そんなことも世の中あるの。「こんなんやったら、一緒にならなんだらよかったと」。なんぼでも、そんなの世の中にある。そやから、その展開の中で、良い展開のおかげを蒙らしてもうていくいうことが大事。
 一人身の時、あるいは夫婦になった時、親になった時、おじいさん、おばあさんになった時、全部、立場が変わってくるよってな。次々、次々と立場が変わってくるなかで、信心をさして頂くことが大事かと思います。有り難うございました。

(平成十年八月二十七日)