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散る時は実る時

 月も雲に隠れることがあろう。隠れても月は雲の上にある。金光大神も生身であるから、やがては身を隠す時が来る。形がなくなっても、どこへ行くのでもない。金光大神は永世生き通しである。形のあるなしに心を迷わさないで、真一心の信心を立てぬけ。美しい花を咲かせ、よい実を結ばせてくださる。(『天地は語る』三六〇)

 人の命には限りがある。人の命にだけではなしに、すべての生き物の命には限りがある。そこを仏教は、「無常」と言われて、「浮き世」じゃと言われたり、様々に言われる。また若い時は、「死」という事は余り考えられないですけど、段々、年をとってこられて、お友達が次々と亡くなったり、知り合いが亡くなったりすると、「次は自分の番かいなー」と、えらいこっちゃなという案配になっておる。天地の大鉄則、「生者必滅」。なんぼ医学が進んでも、ちょっと延ばすだけでのもんであってね。必ず死ぬ。
 ところが、この秋になって解りますけども。散る時は、実る時なんですよ。解りますか。散る時は実る時。実をつけて種が出来て、そしてまた次の生命を生み出していく。散る時は実る時。どんな木も花も皆、そうですね。散る時は次の実りがある。次の命を生み出さしてくださる。これは大変なこと。
 しかし、万物の霊長である人間はと言うと…。先ず、なんで万物の霊長であるかというと、それぞれの自由を与えてもろうてる。木は自由を与えてもろうてませんな。自分で歩いて、トコトコと行かれへん。自分の考えで物事が出来ない。そやから、神様が、自然が、散る時は実る時にしてくださっている。本来、生き物は皆、散る時は実る時なんですが、人間は万物の霊長として、自由を与えてくださっておられる。物を考えたり、努力したり、作ったり、心を広く出来たり、その自由を与えてもろうている。それが、他の生き物と全然違う。そやから万物の霊長なの。
 そうすると、自分で実るおかげを蒙らなあかん。ここが犬や猫と他の生き物と違う。実らずじまいで死ぬ人もありますわな。私は、あちこちとお葬式の御用をさして頂く。一辺に解りますな。その人の一生が…。「ヤレヤレ死によった」いうのあるの。「はあ、まあまあ、葬式せん訳にはいかん。形だけしとけ」いうのもあるしな。誰も、もう泣きも、何にもせえへん。「はー、ヤレヤレですわ」という感じもあるしな。ほんとに泣いて別れを惜しむ者もあれば、「必ずあなたの遺志を継いで」と言うて、「頑張らしてもらいます」言うて送る人もあれば、十人十色。お葬式さしてもろうたら、一番よう解りますわ。その人の一生が、どういう一生を歩んだかが見える。


 散る時は実る時、さあ、どういう実りをするか、ここが大事やね。生きてる間にさしてもらわないかん。金光教教祖様は、江戸時代から明治にかけての、ただ単なる土掘る百姓であられた。しかし、我が心を神に向けられて、自分の都合に神さんを向けたのと違うんですよ。神様に自分を向けた。皆、信心いうたらね、自分に神さんを向けることと思うてるからね、違うの。神さんに自分を向けたの。ここが難しいんですよ。皆、信心してます言うけどもね。自分に神さんを向けようとする。教祖様は、神様に自分を向けられた。
 我が心、神様に向けられて、神様の思し召しを頂こうとなされ、神様の思し召しを解られた時に、世間になんぼうも難儀な氏子あるいうことが解られて、天地の間に生かされて、全部の人間が生かしてもろうてる、命を頂いてる、というのが解られた。神様のあること、神様の恵のこと。我が心が、神の入れ物であること。いくらでも心が広くなること。神にならしてもらえること。そのことが解られて、土掘る百姓でありながら、一生懸命にそのことを伝えていかれた。また我が心、神に向けていかれた。そやから生神になられた。生神でも身体が亡くなる。
 今頂いた御理解や。「形が無くなったら、来てくれという所へ行ってやれる」。教祖様のご一生は、ほんとの破れ畳、小さな小さな農家が、教祖様のお広前であれらた。亡くなられて終わるかいうたら、終わらん。全国各地、外国までも多くの教会が生まれ、多くの人が助かり、百数十年経ちまするのに、未だ多くの人が助けられてる事実。それがある。
 そこを教祖様は、「この方がおかげの受け始めである。」そのおかげいうのは、自分の都合よう行くだけではない。人間って何か。神の氏子って何か、解らしてもろうて、その働きをするのをおかげという、「此の方を神、神と言うが、此の方ばかりではない。ここに参っておる人が、皆、神の氏子であるから、皆、神なんである。生神とは、ここに神が生まれるということであります。」すごいですな。皆生神。我が心次第で、生神にならしてもらえるとおっしゃる。やがて我々も死なしてもらう。その時に、どういう実を実らしていくか。ここ大事なところですね。どういう実を実らしてもらうか。散る時は実る時なんですよ。そいう大きな、大きな天地の命の中に、私たちは生かしてもろうとります。そういう命を頂かしてもろうていく、よい実りをさしてもらうことが大事なことかと思います。有り難うございました。

(平成十年九月十日)


オギャーから棺桶までの間に何をする

 ここに赤ちゃんがおりますが、段々大きくなって、それぞれの人生を歩んで、そしてやがてまた死なしてもろうて、神さんの元へ帰らせてもらうんですがね。その人生、生きてる間に、色々な生き方をする。頭のええ人もあれば、悪い人もあるし、その時の時代にのれる人もあれば、時代にのれない人もあるし、色々な人生を歩む。
 そして亡くなる時に、その歩んだ人生の結果が出る。成功した人は、大きな葬式を出してもろうて、花輪がようけ並んだり、大きな大きな分厚い棺桶に入れてもろうて、貧乏人は薄っぺらい棺桶に入ってと、十人十色。確かにその通り。
 例えば大阪やったら、豊臣秀吉。大阪城を造った。天下を統一した。大したもんや。大きな、大きな葬式を出したことやと思う。その時に生きてないから知らんけども…。しかし、その豊臣秀吉の葬式の時に、どんな心で皆、参列したかいなと思う。
 徳川家康はきっと、「次の天下はわしやで」と思うて参列したやろうな。他の大名たちは、「えらいこっちゃ、次はどっちへついたらえんかいな」と思うて参列したやろうな。「豊臣についたらええのか。徳川につたらええのか。どっちへついたらええんかいな」思うて参列したやろう。そして、天下人はようけ女の人を抱えておる。その女の人たちは、「ヤレヤレ、これで開放された」と思うやろうか。それとも、ほんとに悲しむやろうか。それとも、「私、明日からどないしたらええんかいな」と思うか。参列する人の心で様々なもんやと思う。人それぞれにある。
 亡くなった秀吉自体は、どんなんやったかというたら、小さな秀頼のことが気になって気になって、「くれぐれも、秀頼のこと頼み参らせ候」と言うて徳川家康やら、諸大名にも頭ばっかり下げて、どうぞ頼みます、頼みます言うて、書いた辞世が「露と落ち露と消えにしわが身かな 浪花のことも夢の又夢」いう情けない辞世を書いて死なならん。ほんで、わずか秀吉が死んで二十年。大阪城落城ですわ。どんなことやろうなと思う。


 教会の墓地が阿倍野のありまして、阿倍野は大きな墓地でございまして、色々な大きなお墓が、たくさんある。そりゃそりゃ、大きなお墓がたくさんある。元公爵、男爵やとかな、従二位、正三位とか、そいうような位や肩書きが刻んである。将校の功績を讃えた碑が立っている…。ペンペン草生えてる。哀れなもんやな。ペンペン草生えてる…。
 そうしてみると、裸で生まれてきて、そして、なんぼ大きな棺桶入れてもろうても、焼くの一緒や。そうした時に、何が残るんやろうな。その人の人生で何が残るんやろうか。葬式の時に「あの人のおかげで、ほんとのことを解らしてもらいました。あの人のおかげで、良い人生を歩むことが出来ました」というような思いで参列する人間が、どれだけいてるかが、その人の人生の成果やな。そりゃ、ようけ「しきび」や花輪立てても、義理か、やっかいで来てるんやからな、殆どの人は…。
 御堂筋で北御堂、南御堂がある。御堂さんで一回葬式あげたら、大体三千万円から四千万円と言われている。そこの太融寺さんで五百万円と言われてる。葬式あげるのね。そりゃ、立派な葬式や。そんなとこであげたらな、ようけの会葬者があるかわからんけども、何人の人が「この人のおかげで、良い人生を歩むことが出来ました。良いことを教えて頂きました。この人のおかげでと…」というのが何人いてるかいうのが、大事なところでね。
 オギャーと皆裸で生まれて来て、死ぬ時に棺桶入れてもろうて焼かれるのも、なんぼ大きな立派な木の棺桶でなかろうが、皆一緒。オギャーから棺桶までの間に、何をしてきたのか。「あの人のおかげで…」と言われることをさしてもらうことが、その人の成果であろうかと思います。有り難うございました。

(平成十年九月十一日)

ポーンと一肩叩いてあげる

 教会がこういう繁華街の地域にあります。この周辺を人が、行ったり来たりしております。朝早うから若い人たちがウロウロし、夜の勤めを終えてゾロゾロと帰る。あるいは、今から、朝の時間、これからサラリーマンが勤めに出る。昼過ぎになると、ネオンが輝き出す。ほんとに二十四時間、人がうごめいている。全国の教会数ある中でも、特異な場所にある教会だと思う。そういう所にあるだけに、余計にお役割がね、そういう人たちを、救わして頂くお役割を頂かしてもろうてこな、いかんのであります。
 そいうところから、教会の玄関をいつも開け放して、「思い切ってお入りください。胸の内を開いてください。そしてこちらの話しも聞いてください」と掲示をしております。また、玄関の外には、御本部で頂いたお道の冊子を、自由に持って行けるようにさしてもろうてる。


 お広前に座らしてもろうてると、色々な人が行き来するんですけども。その内何人かは、冊子を開いて見て、ずっと中覗いてる。そういう人たちが日に何人とありますな。私がお広前から、手招きするんですが、なかなかよう入ってこん。助かりたいんでしょうな。なかなか、よう入って来ない。今も、パトカーが走ってる。(サイレンが聞こえる)そういう案配で。色々な人種、難儀の人が表にいてる。「おいで、おいで」したかて、よう入って来ない。そういう意味では、ご縁を頂くいうことはなかなか難しい。
 それでたまに入って来た人が言うには、なかなか一辺に入れなかった、いうことを言われる。「せいのー」と飛び込んで入ってくるという案配ですな。ですから、そのご縁を頂くには、ポーンと一肩叩いてあげる。何も難しいこと言わんでも、ええ。「そんなに悩んでるやったら、教会の先生に聞いてもろうてみー」と、説明せんでもええねん。ポーンと肩叩くだけでええねん。一肩叩いたげるだけで、そのきっかけを作ってあげる。「せいのー」で入ってくるのは、なかなかようせん。というのは、世の中全体がけったいな宗教ばかりやでね。「マインドコントロールされへんか、壺買わされへんか、金巻き上げられへんか。家庭崩壊させられへんか…。」そんなんばっかりが流行ってますよってね。宗教いうたら、怖いということが定着してもうてる。それでいて助かりたい、怖い世の中になってますね。宗教が怖い。無茶苦茶な話しや。
 ほんとは人が助からないかんのに、宗教が怖い時代になってんのやから、どないすりゃ、ええねんということになりますな。そいう思いがあるもんやから、表から覗いて入ろか、入ろまいか、またマインドコントロールされたり、財産巻き上げられたり、家庭崩壊させられたりしたら困るがなというような案配であります。
 その時にね、ポーンと一肩叩いてあげたらそれでええ。そうすることによって、ご縁付けが出来て、その人が助かっていってもろうたらええ。「この金光教は…」と説明したかて、難しゅうて出来る訳がないし、大変なこっちゃ。ポーンと一肩叩いてあげるだけで、「お話聞いてもろうたらええがな。聞かしてもろたらええがな」と言うだけで、その人が助かる道筋が出来て参ります。こういう場所で、教会があればあるほどに、世の中のほんとに、難儀迷うてる苦しんでる人に、毎日のように見さしてもらいます。おかげを頂いてもらいたいもんじゃ、と思います。有り難うございました。

(平成十年九月十二日)