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改まりは原因調査?

 「先祖からのご無礼がありましょうとも許してくださいませ。日々信心いたしますから、信心の徳をもって、どのようなめぐりもお取り払いくださいませ」と言って願うがよい。(『天地は語る』一八八)

 先祖、先祖からの罪をわびよ。めぐりは、ひなたの氷のようにお取り払いくださる。(『天地は語る』一八九)

 今、めぐり、改まりということを教えて頂いておりますけれども。
 人間皆、これが上手いこといかなんだから、こうなんだ。すぐそう思いたい。特に難儀をしている時は、これが原因やったから、こうなんじゃと。すぐそっちの方へいく。そやから、改まるというよりも、こっちの方を直してもらいたいという、原因調査みたいなもんやな。ほとんどやってはんのわ。「これ何とかしたら、これようなりまっか」という、そういうような改まりでは、改まりとは全然違う。
 神様と共に生きさしてもろてる、神様の中へ生かしてもろろてるという、改まりの裏を見てみるとお礼なんですわ。どれだけお礼が出来とるかいうこと。逆に言うと、「はあ。有り難いこちゃなあ。神様、今日もお恵み頂いてるな。もったいないことやな。お守り頂いてるな。有り難いことやなあ。どうぞ、今日もお使い頂きますように」と思える心。お礼の心が裏返すと、改まりの元になってくる。というのは、「我が勝手にばかり致し、好き勝手なこと言うて、好き勝手にばかりしております」ということを解らしてもろうたら、改まりなんですわ。裏返すと「有り難いことでございます」いうこちゃ。裏と表なの。改まりとお礼いうのは、裏表みたいなもの。
 ところが、普通世間で言う、改まらなかん言うたら、この問題の原因がここやから、そやから改まらないかん。改まるのを道具にしてるの。違うの。道具にしてたらあかん。神様と自分との関係において、もったないことやなあ、と思た瞬間にそれ改まりになってるんですわ。もう瞬間にそれ改まりになっておる。ブツブツ、ブツブツ出たら、瞬間にご無礼になっておる。もうめぐりを積むことに、なってきておるんやな。
 そやから、皆改まれ、改まれ言うけど、皆おかしい。改まりを道具にしている。改まらんとこうならへんで…とか。そういうような道具にしてしもうてるんやな。おもしろいもんやな、これ、そのこと自体が得手勝手なこっちゃ。そのこと自体が得手勝手と、そういうふうに思える。
 また、お供えでもそう。「なんぼお供えせなあきませんの」言うて、それは向こうにあるものを目当てにしてる。「お供えしたら、上手いこといきまっか」。そういうひも付きや。もしくは「あんた、なんぼしてはりまんの」いうような案配でな。これは、世間並や。
 そんなこと神さん言うてはれへん。「真に有り難しと思う心すぐにみかげの始めなり」という、もったいないことやなと。人間有り難いと思えば、お供えせずにおれんようになってくるもんじゃ。「あんた、なんぼしたん、そうでっか。その程度で…。」それでは、ひとつも神さんに通じてへんがな。神さんに通じないかん。お礼も改まりもお供えも、神さんに通じなあかんが。皆世間並では、一つも神さんに通じてあらへん。


 例えば若い時に、好きな人が出来る。そうしたら、プレゼントしたくて仕方がなくなってくる。そうやろう。「好きです。好きです」言うて、空手形の人も多いけどな。「愛してます。愛してます」愛してますやったらな、小遣いはたいてプレゼントせずにはおれんもんや。逢いに行きとうてしゃないもんや。「好きでっせ。好きでっせ」逢いにもけえへんわ。プレゼントもせへえんわ。そんなもん口先だけや、そんなもん。神さん通じへん。相手に通じへん。
 せずにはおれん、という神さんとの関係はそういうものや。お参りせずにはおれん。お礼申うさずにはおれん。お供えさしてもらわずにはおれん。そういうものや。世間並で「どうしょうかいな。これせなあきまへんのやろか。そんな…」ですから、根本的に信心になってない人が多い。信心にならしてもらわな。信心とは、神様と自分との関わり。人さんは関係あらへん。神様と自分との関係であり、「はあ。今日も有り難いこちゃな。もったいないこっちゃな」とこれが改まりの親分や。それが出てこないということは、「ああ、ご無礼お粗末でございましたなあ。ほんとにな我が勝手な事ばかりで、申し訳ございません」。これがお詫び、改まりや。
 「今日も有り難いな。お使い頂いてるな。今日も色々問題はあるけれども、どうぞ、今日もお使いくださりますように」とお礼を申さしてもうてきたら、それが、全部改まりになってる。ところが、改まるという中に、先ほどから何回も言いますけど、「こうしら、こうなりまんのか」言うてみんな条件を出してきている。神さんに条件を出してきてるんやな。
 例えば、子供が皿洗いするから、お小遣い出してと。そんなんする前に、親は守り通しに守ってるがな。まあしゃあない。小さい子やったら、「賢いね」言うて、あめ玉の一つもでも親はあげるけれども。そんなために皿洗いするのと違うが。「皿を洗える人間になってくれ。用事の出来る人間になってくれ」そう親は願ごうてる。あめ玉のために。皿洗いさしてるのと違う。
 「お皿も洗える人間になってくれ。勉強も出来る人間になってくれ」と願ごうてる。ところが子供の方は、あめ玉のために皿洗いしてんの。小遣いのために皿洗いしてんの。全面的にいつまでも幼な過ぎるな。信心はもっと神様との関係で、何々したからどうじゃ、こうじゃというようなもんと違う。もっともっと大きなお働きで、日々刻々にお守り頂いておる、それを解らしてもらえる人間、有り難う思える人間、有り難う思える氏子にならしてもらう。神様が有り難うて仕方がない氏子にならしてもらうのが、大事なことかと思います。有り難うございました。

(平成十年八月六日)


折り紙と真心のお供え

 金光大神は金銭を目当てに拝むのではない。難儀な人を助けなければならないから、「お供えのことを思わないで、こづかいだけのくり合わせを受けられた時に参りなさい」と話しているのである。信心しておかげを受けた時に、心任せのお供えができるようになれば、供えた者も喜びであろう。(『天地は語る』一九一)

 長者の万灯、貧者の一灯ということがあろう。その貧者の一灯も供えられない者もあろう。神は灯明でも線香でも、何でもかまわない。一本の線香さえ供えられない者は、一本を半分に折って供えても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香も供えられない者は、切り火をして供えても、灯明の代わりに受け取ってやる。線香の灰でもおかげを受ける者がある。(『天地は語る』一九二)

 今日はお供えのことについての御理解が、ずっと続きましたが。
 子供が幼稚園、一年生という頃であります。私の誕生日になりましたら、子供なりに、ちびさんなりに、なんかせないかん思う。上の子が折り紙を作って持ってきてくれた。一生懸命に折ってくれてんやね。ちびさんの真心や「ああ。有り難う、有り難う」言うて、子供の方も喜んで受け取ってくれたら、うれしい。こちらもうれしい有り難い。「有り難う、有り難う」言うて。
 また明くる年の誕生日もまた、折り紙を折って、お誕生日プレゼントいうて持ってきてくれた。「有り難う、有り難う」。中学になっても、折り紙を折ってきてくれた。「お前何してんねん」と言うてね。「お前アホか」言うて。「お父さん折り紙折って…」「あのな何考えてんねん」
 ねえ、人間ってこんなことあるの。気を付けんと。「お父さん、折り紙で喜ぶねん」言うてな。「それはな、幼稚園の頃、一生懸命に折る真心を受け取ってるんや。中学のお前が折り紙で、ごまかしてるんじゃ、なんじゃそれは。ごまかしやないかお前は」真心言うけど…。ここ危ないところ。お供えでもな。非常に危ない。気を付けんと。何してんの。逆に怒られなならん。何考えてんねん。
 そこやな、真心いうのは、その時々の自分の内容にとって一生懸命に、というものが真心や。逆にお商売が成功してはった時、ダメになって行く時もある。例えば、成功してた時に、百万円お供えしたとする、ダメになって、百万円お供えせないかん。そんなん思たらいかんわな。その時々の持ち場立場、状況に応じて真心でさして頂く、いうのが神様がお受けられる。これを親子で言うたら一番良く解る。
 先ほどの中学になっての折り紙は「アホか」言うて怒られる。ところが、お商売が上手いこといかんで、経済的にも上手いこといかんのに、子供が無理して持ってきたら、「そんなことしたらいかん」と逆に言わないかん。「そんなことしてるどころか」ということ。
 皆、形に決めようとするんやな。そうと違うん。その時々の状況、状態のところにおいて「神様にお喜び頂きたい」という、そこが大事なことなの。皆こうせないかん、ああせないかんとか。あの人は、なんぼしてはるとか。そんなことばっかり思うてしてるんやね。信心いうのは、神様と自分の関係をしっかりと、持たしてもろうていくいうのが大切なことかと思います。有り難うございました。

(平成十年八月七日)

やさしさがくせもの

 農作業で忙しい時など、ご飯を神に供えるのに、足が汚れているからと、めんどうに思って供えるのでは、神は喜ばない。それよりも、釜の中で少々かき寄せて、神様と言って拝んで、それをよく混ぜていただけ。神はそれを喜ぶ。(『天地は語る』一九八)

 今のみ教え「農作業の忙しい時に、一々手足を洗って、ご飯を神様へお供えする必要はない。釜の中をかき混ぜて、お供えしたらええ」、やさしい神さんですな。また、表行いうて火を踏んだり、水をかぶったり、そんなことせんでもええ、無理せんでもええ。やさしい神さんですな。このやさしさがくせものや。
 神さんがやさしゅうても、天地の道理から外れてくると、危ないからね。気を付けんと。このやさしさがくせものや。
 小さい時母親、父親がね、妙にやさしかったら後が怖い。なんぞあって、後でカッと怒られる。「お前はええ子や。おいで、お前はええ子やな」言われたら危ない。「アホ」言うわれてる方が楽なん。「コラ」言われてる方が楽や。「ちょっとおいで、お前はええ子やな」言われたら、後なんぞあるな思わないかん。このやさしさがくせものや。
 何がくせものか言うと。例えばそうして、「農作業忙しい時に、一々手足洗うてお供えせんでもええ。かき混ぜて、お供えさせて頂きます」と、その通りなの。ところが人間は得手勝手ですから、忙しのうてのやりよる。農作業で忙しのうてもやりよる。「神さん、それでええ言うてはんねん」言うてね。人間のこれが怖い。
 「行」かてそう。金光さんは別に「行」せんでもええ言うてはんねん。結構な神さんやな。何もせえへん。改まりもせえへんし。一生懸命にお参りする事もせえへん。「お供えものとおかげはつきものではない」と、お供えせんでもええねん…。
 ほんとに人間ちゅうのはどうもならんね。そういう面では。これが怖い。そやからやさしいいうのは怖いですよ。自分自身でキッチとしていかないかんから。「コラ」言われてる方が楽や。まだ「これせんか」言われてる方が楽なの。「こうしなさい」言うてもうてる方が楽なん。自分自身で、謹んで恐れ入って、というものが自分の中から生み出していき、「せめて私はこうさせて頂きとうございます」という、自分でせめてというものが自分で生み出してこれなければ、ずぼらになろ思うたらいくらでも、すぼらになる。
 なんでも初めのうちは、お届けさしてもらおう。はあ、結構なことやな。段々慣れてきたらお届けもパス。神様にお届けもパスになって、自分でちゃ、ちゃ、としてしまう。別にそれでも、なんともおっしゃらんから。こいつが怖い。そやからやさしゅうされる言うことは、非常に怖いことであると思とかないかん。自分で生み出してこないかん。自分でけじめ付けていかないかん。しかし、人間ちゅうのは、ずぼらになろう、ずぼらになろうとする。


 今夏休みですな。小学校の時、「夏休みの友」いうドリルをもろた。「今年こそは、七月中にちゃんとやっといて、後はゆっくり遊ぼう」思うたもんや。結局、六年間全然あかん。あらら。二学期始まる前に、えらいこっちゃ言うて、親から怒られるは「ほんまに、まだやってへんのか」言われるわ、「今年こそはドリル見てな。ちゃんと、先、先やっていこう。一辺にできんかったら、三ページはやろう」と、初めは決めるねん。二学期えらいこっちゃ。
 ほんとに、人間いうのはずぼら性、ずぼら性と思う。そやからやさしゅうされたら、怖い。「罰当たるぞ」言われる方が楽や。また、神様はやさしゅうして下さるけれども、天地の道理に外れてきたら、難儀をするね。神様、親様はやさしゅう、やさしゅう言うてくださるけれども、天地の道理から外れてくると、自分が難儀せなならん。自分が痛い目に遭わないかん。
 勉強せんでもええで。勉強は自らするもんやけども、親はやさしい言うてくれたら、怖いよ。それで勉強せななんだら、レイ点とるの自分や。「別に無理に勉強せんでもええで」こう言うてもろうたら、楽やけど怖いで。「勉強せんか」言うてもうてる方がな。くそったれ思てもな、してる方が…。「勉強は好きずきにしたらええねん」。これええ親やなと。思うて勉強せえへんかってみ、難儀するの自分や。ここのところ、今日のみ教えはほんまに有り難いけど怖い、一番怖いみ教えやなと思わさしてもらいました。
 今日は、ただ今から御本部参拝さして頂いて、月々のお礼参拝と、少年少女たちが一年間無事に活動さしてもろたことのお礼に行かして頂きます。有り難うございました。

(平成十年八月八日)