トップページ 写真館 本・ビデオ おかげ 扇町教会とは リンク

人間は神が使うためにこの世に生を与えられた

 神の取次は神がする。真の信心がある者は神である。そうであるから、神の取次ができるのである。狐や蛇や鳥などに、どうして神の取次ができようか。何の神は狐が使わしめ、何の神は蛇が使わしめなどと、いろいろなことを言う人があるが、天地金乃神は、神の子である人をもって使いとなさる。(『天地は語る』一五八)

 全国各地にお宮さんや、祠がたくさんあります。大きな大木に、注連縄張ってあるところもあれば、大きな岩に、注連縄張ってるところもある。そうかというと、お稲荷さんをお祭りしてる所ありますし、巳(へび)さんお祭りしてる所ありますね。そこの読売新聞本社前に、大きな銀杏の木があります。あれは、巳さんをお祭りされてます。もう色々な動物やらそういうものが、お祭りをしておられる。別にお祭りする事は悪いことでない。それぞれの命があってのことやから、動物としてお祭りするのやったらええけれども、そうじゃなしに、それが特別の力を持つと思うんやな。
 例えば、何で巳さんは、あのようにお祭りされるか言うたら、爬虫類やからなかなか死ねへん。しぶといねん。しぶとかったら、それだけの力があると思う。そういうところから、巳さんをお祭りするようになった。
 また、鼠さんをお祭りしてるところがある。鼠はよう巣を作る。これは「栄える」という意味でお祭りする。狐さんは商売の神様。元々は農業の神様やねん。なぜか言うたら、狐のしっぽがありましょうが、あのしっぽがフワフワよう揺れる。あれが稲穂みたいであると。あのように豊作であって欲しい、という願いが狐をお祭りする。その豊作から、商売繁盛へと続いてきている。
 というような案配で、人間というものは、自分と違うもの、あるいは「あんなんみたいになりたいな」という連想していく、「連想ゲーム」みたいやな。連想していくところから「あんなんなったらええのになあ」と。「あの狐のしっぽみたいに、ようけ豊作であったらええのになあと」。「たわわに実ってほしいな」と、そこから連想してみて、狐さんを祀ろうかということになる。狐は豊作の神さんやから、今度は商売繁盛もええで、とこうなる。
 鼠が巣作るのを見て「鼠はええなあ。子孫がすぐ増えるな。」ねずみ算式に増えますでしょう。あのように栄えたいなと思うてそうする。犬を見たときに「犬は安産やな。あんなみたいに安産でありたいな」そうしたら、犬を祀ろうかとこうなる。「連想ゲーム」ということですな。
 そこを教祖様は、拝ましてもらうのは別に何も悪いことはないんやけれども、何でおかげを蒙っていくのか、そこのところへしっかり腹入れしとかないきませんよ、とおっしゃる。「天地金乃神は、狐や狸を使わしめにせん。人間自体を使わしめにする。神の氏子である人間を使う」とこのように仰せになる。ここが大事なことですな。


 昨日、ある教会の機関誌を読んでおりました。これは大切な言葉やなと思てその一節を紹介します。
 「人間はいかに生きるかではなく、いかに生かされていくべきか」大事なところですね。社会では、「人間はいかに生きるべきか」ということを言う。信心さしてもうらうものは、「いかに生かされていくべきか。どのように生かさして頂くのか」。
 五体満足に生かしてもらい、物を考える知恵を頂き、十本の指、両手を頂き、人を愛せる心を頂き、知恵を働かすことが出来、それらをどのように頂かしてもろうて、お使い頂くか。この知恵かて、「悪知恵」いうのがありますな。「悪知恵」の方へいくのか、人を愛する豊かな心の方へ生かしてもらうのか。ひがむ方へいくのか。これも我が心やな。
 この手も、サルも手足があるけれども、この十本の指で、素晴らしいものを生み出していくのか、人殺す物を作っていくのか。「いかに生きるべきか」じゃなしに、「いかに生かされていくべきか」と、これは自分のものじゃない、頂いたもの。それを生かして頂くという根本の信心を、今月今日されている。
 そこからもう一つ進んで、この先生は「私の師匠は神様から、『人間は神が使うために、この世に生を与えられた』と。神様からお知らせを頂いたということを、師匠から教えられた」と書いておられます。
 神様に使われるとはどういうことなのか。神様の心を生み出してくる。神様の魂を生み出してくる。働きをさしてもうてくる。我が心一つで、生神にならしてもらえる。多くの人が助っていく働きが出来てくる。
 教祖様ご自身は、「私は、何の徳もない土掘る百姓でございます」。そこらじゅう、どこにでもいてはるお百姓さん。ところが、我が心一つで神様の心を頂いていかれて、多くの人々を導き助けられ、ご自身はどこまでも土掘る百姓として、生きられておられます。「この方のことを神、神というが、この方ばかりが神ではない。ここに参ってる人々が、みな神の氏子である。生神とは、ここに神が生まれるということだ。」皆さんが生神なんですよということ。そういう大きな大きな働きをさしてもらえる、それぞれであります。
 不自由になるのもつまらん、つまらんことになってくるのも我が心、生き生きさしてもろうて、有り難うなってくるのも我が心。信心とは、我が心が神に向かうのを信心という。神様に向こうていく。同じように皆、知恵も心も手も頂いてるんやけれども、その使い方、頂き方が解らんで難儀している。
 心かて、憎み合うたらどうか。教祖様は「目に見えて人を殺すのは、お上があってそれぞれの仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」と。お互いに、心に出刃包丁持ってる時あるからね。「あんにゃろめ、いっぺんやったろか」言うて。心に出刃包丁持つこともありますわいな。具体的に出刃包丁を持つと捕まるけれども、神は見てるよ。心に出刃包丁持ってるのを見てる。とまさにおかげは和賀心、我が心次第であると、おっしゃってある。
 我が心次第で、大きく、大きくお使い頂く人間になっていくか。ひがんで、ひがんで、もうどうしょうもない、神様がえらい氏子産んだないうて。親に似ん子は「鬼っ子」いうてな。鬼っ子も自分が難儀してるんですよ。自分が苦しんでる。人を憎んだら、自分が苦しいんですよ。人を愛したら自分が豊かになるもんな。人を憎んで、心に出刃包丁持って、誰が苦しいかいうたら、本人が一番苦しい。我が心に出刃包丁持ったら、こんな苦しいことない。その苦しんでる姿を、神様が嘆かれる、苦しまれるということになる。
 神様に喜んで頂けるような「使わしめ」にならせて頂くこと。神様は「ヒノキシン」(天理教の奉仕)をせいとは言うておられない。我が心を広げよとおっしゃる。「神が何せい」言うたら、「すぐ何せい。こうせい」となる宗教があるけれども、そんなことと違う。我が心を拡がらしてもろて、大きくならしてもろて、神様に喜んで頂くような心に、ならしてもろうていくことが、「神様の使わしめ」ということであります。有り難うございました。

(平成十年七月三十一日)


一月のことは、その一日に願え

 一年三百六十五日のことを正月が元日に頼みおき、また、月三十日のことは一日に頼みおき、一日のことは朝頼みおけ。病んだる時の信心は願いなり。病まぬ時の信心第一。家内中まめ息災、牛馬にいたるまでさしつかえなく、おくり合わせを一心に願えい(理T 市村光五郎 三・三三)

 八月一日を迎えさせて頂きました。月が改まらしてもらうと、日程表の白板を書き換えさして頂きます。玄関の行事表もそうですし、お広前の中にある私の日程の白板も、書き換えさしてもらう。その時に、先ず先月の七月分を消す。そして、八月分を書かしてもらう。その消す時に、シャーとよう消さん。「七月一杯、ああこのこともおかげ蒙ったな、これも御用させて頂けたなあ」と、お礼を申し申し、先月分を消さしてもらう。また、新たにお願いしいしいに、八月の行事日程を記載さして頂く。
 人間過ぎ去ってしもうたら、シューと忘れてしまうんやな。今までおかげを受けてきて、その延長上に、七月ちゃんとおかげを蒙ったからこそ、八月の色々な様々なことをまたさして頂くことが出来る。
 例えば七月中に、病気になったり、大騒動起こったらその延長上にあるんやからな八月もそのようになる。七月のおかげを受けてきた延長上に、八月のことをさして頂く。また、今日から、八月が始まるで、予定はどこまでも未定や。「こうこうさしてもらいます」言うて、あるいは「ここ行かないきません。ここへ講演に行きます」なんぼ書いたかて、前日腹痛でひっくり返ってもうたら終わりや。どこまでも予定というものは、未定なの。七月の初めも未定やったんやな。ところが、計画通りというか、スケジュール通り七月の末を終えさせてもうろうて、八月に迎えさしてもろてることが有り難い。


 先ず信心いうのは、けじめが付かないきませんねん。けじめが大事。朝起きたら、先ず「神様有り難うございます」から出発して、休まして頂くまで、そのけじめを付けさしてもろうて行くことによって、神様に向かう向かい方が生まれてくる。
 「天地金乃神の広前は世界中である」あるいは、「いつも神様は昼夜を問わず、遠きも近き守って下されている」。その通りなの。その通りのお守りを頂き、お働きを頂いておる私として、どうけじめを付けてお礼を申し上げ、また、お願いを新たに申し上げていくかということが大事なことなの。
 例えば毎月改めて『祈願カード』(教会備付けの用紙に祈願を書いてお届けするもの)をさしてもろうてますね。大体のお方が、一回お願いしたらそれで終わりやねん。誰のお願いやねんな…。
 遠くで月に数回しかお参りが出来ないお方が、だんだんにございます。その方の『祈願カード』は丁寧やね。ほんとに丁寧に『祈願カード』を書いてお願いをなさる。それだけでなしに、そのことに対してお礼が出来てる。
 ある方は、七月の初めにお願いしたことが、七月末で見事にキッチと揃うたおかげが現れてきてる。「ああカード書いてまっせ。ポイ」そんなん、いい加減なことやったらな、神様はあかんとはおっしゃらんけど、「お前どないすんねん。お前は」言うてね。
 例えば「勉強お願いします」言うて、「勉強するお前はどないすねん」いうことやな。この八月を迎えさせてもらい、改めて神様にけじめを付けていく。とかく今日では、けじめがほんとにいい加減になってきた。上下のけじめ、親子のけじめ、昼と夜とのけじめな。これも無くなってきたな。深夜族が増えてもうて、これもおかしなことになってきてる。けじめが失うてきたので、家の中ガタガタになってしまうのでしょうな。
 そういうことを思いました時に、特に神様は声も無し、形も見えずのお方でありますから、自らがキチッとけじめを付けさして頂くということ。教祖様も「一日のことは朝に願え。一月のことは、その一日に願え」と、そのけじめのことを教えておられます。けじめをキチッと付けさせてもろうて、神様に向こうて、向かえば向かうほど、ほんとにおかげを蒙りますね。
 『祈願カード』で御祈念さしてもろうてると、けじめ付けて一生懸命御祈念してたらすぐおかげになってるなとすぐ見えます。どうぞ、そのおかげを頂いてもらいたいと思います。有り難うございました。

(平成十年八月一日)

ああなりたいな。こうなりたいな…。

 皆それぞれに「こないなりたいな。あんなになりたいな」という思いがある。勉強でもそう、通知簿もらう時に「どうかいなあ」とチクッと思うでしょう。「どんな点付いてるかいな。ええ点かいな…。どうかいなあ」と気になる。というふうに人間というのは、みんな願いを持ってるから人間なんです。思いを持ってるから人間。犬や猫は「腹減ったな」しかないねん。「なんか食わして欲しいな」しかないんやけど。
 人間は「ああなりたいな、こうなりたいな」と、思えるから人間。人間ってなんだろういうたら、願いを持てるから人間なの。みんな「ああなりたいな。こうなりたいな…」それは「したいなあ。ああなりたいなあ」の「なあ」止まりで終わる人がほとんど。「ああやったらええのにな」。「なあ」止まりで、そうじゃなしに、「是非とも」という思いを持たしてもらうことが大事。そこに神様にお願いすることが大切なんやな。
 「ああやったらええのになあ」から「ぜひとも」と、神様にお願いをする。そうすることによって、「なあ」から物事が生まれてくる。みな「なあ」止まりになってしまうんでいかん。
 そこにお願いのカード(教会備付けの用紙に祈願を書いてお届けするもの)がある。「こうなったらええのになあ」から「是非ともならしてもらいます。是非ともお願いをさしてもらいます」という具体的に、神様にお願いするように、祈願カードを作らしてもらいました。
 今の世の中、大変な不景気でしょう、お仕事が大変なの。サラリーマンさんにしても、会社が潰れたり、あるいはお商売してる人も、お客さんが無かったりして、ほんとに、大変なの。そんなお一人に、遠いお方なのでしょっちゅうお参り出来ない。すると、祈願カードを送らしてもろたらね、ほんとに事細かに書いて、お届けなさいます。内容は申しませんけど、「先月は新たに六人の新しいお客さんが、固定客が出来ました。有り難うございました」言うて、お礼のお手紙が参りました。
 日々私も、皆さんの事もお願いさしてもらうけど、ご本人、自分自身が「なあ」から、これは「是非とも」というお願いに変わらしてもらわないかん。勉強でもなんでもそう、「こないなったらええのになあ」から「是非とも」と、神様に届くようなお願いの仕方をさしてもろうてな。是非とも、それぞれが「良かったなあ」にならしてもらうように…。「あかなんだ」言うてね。ふと気が付いたら二十歳、ふと気が付いたら三十歳、ふと気が付いたら四十、五十や。年月の経つのは早い。よその子を見て、ああもうこんなに立派になってんねんな、と思う事がようあります。
 「なあ」だけで終わって、「私の人生『なあ』だけやった。『こないなったらええのになあ』だけやった」言うて私の人生終わってしもうた。にならんようにな。「良かったな。「ほんとに素晴らしいなあ」とならしてもらう。そやから、真剣に神様にお願いしてください。私も皆さんの願いを、神様にお願いさしてもらうでな。よろしくお願いしときます。有り難うございました。

(平成十年八月二日 少年少女会合宿において)