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人間じゃない、何すんねん

 昨日もお話した同じような話になると思うんですが、和歌山の青酸カリが入ったカレーの事件の話しです。昨晩に宅祭があり、そこの子供さん、高校生、中学生、小学生に「あの事件どう思う」と聞いた。案外反応がない。高校生の子は「不思議に思うた」と。「なんであんなことしたんやろう」と不思議に思うた。あとの二人は、何の話という感じやな。興味がない。
 あの事件を見て、ニュースが入って十人十色の考え方、感想があると思う。その感想によって、どういう感想を持つかによって、その人が何を大事にして生きてるのか、その人の心の中に何があるか、それで大体解る。
 「悪いことする人いますな」という程度なのか。私なんか憤りを感じますね。人間にとって、一番大事なのは命ですわ。他人の命も、自分の命もね。交通事故でもっと多くの人があちこちで亡くなってる。それも大騒動だけれども、同じ亡くなり方でも全然違うわね。「なんちゅうことしてくれんねん。人の命を何と心得てんねん」と。事故と全然違う。事故で亡くなることもある。病気で亡くなることもある。亡くなるという事態は、同じことなんですけども、「人の命を何と心得てんねん」と、私は大変な憤りを感じますね。「人間にとって、一番大事なものは何やねん。命やないか。自分の命も、他人の命も、命を抹殺するとは、なんちゅうことするか」と、二ュースを聞いてすごく憤りを感じます。
 「まあ、大変なこと起こりましたなあ。えらい世の中になりましたあ」程度では、私の心の中では済んでない。「えらい社会でんな。怖い社会になりましたな」という程度では、私は済まん。
 信心というのは、神様に対して、命に対しての感性ですな。どんな感性を持っておるのかというのが信心でしょうな。その感性を深めていく、それが大事なことですな。また続いて情報過多でどんどん、どんどん入ってきて、忘れられる事件には違いないでしょうけども、次々今日も新たなことが起こってくると思います。まだ知りませんけども、次々と情報入ってくるもんやから、もう大騒動のことも、一週間も経てばフワーと消えてしまうことになるんですけど…。


 いずれいたしましても、一番大切なのは、人間にとってここ外したら、「おまえら、人間じゃない」と言うね『桃太郎侍』に出てもらわないかん。「テメーら、人間じゃねえ」と、あれもまた人を切りよるから、いかんけどもな。「人間じゃない、何すんねん」という思い。そこのところを現代人は希薄になってる。薄くなってる。人の命が薄くなってる。おかしい。ほんとにおかしい。
 として見たら、例えば英語や数学は、通知簿見て数学が悪いな。英語が悪いな、数学が悪いのであれば、これは塾へ行く手段もあれば、家庭教師いう方法もありますねん。しかし、人間として大切なものを培うていくのは、どこで教えんの。これも教育ですねん。これは頭で、言葉の知識は皆解るん。頭ではね。
 心がそういう心に教育されてくるというか、そういう機会が何処もないのが実状実体。これは一回や二回言うたかて解らん、これは身に備わってこないかん。心に備わってこないかん。そやから、毎日お参りして教えを聞け言うのは、みんなそれやねん。お参りして、その神様の心を、人の命を大事にする心、それを聞いて聞いてしてる間に、知らず知らずの間にずっと染み込んでくるのね。知識で「人を殺したらいけません」。言葉で、頭で知識であったかて、これは心の問題、魂の問題ですわな。この魂はもう染み込まして、染み込ましていかないかん。そやから、「毎日参れ、毎日話を聞け」言うのはそういうことなんですな。
 ところが、みなパスして、面白い方へシューと行ってしもうたりする。英語や数学も大事。しかし、そこの人間としての魂のところがしっかりせんと、いくら英語や数学が出来てもあかんねん。何にもならへんねん。


 例えばヒットラーなんてすごいですわ。頭ええ人やろうと思う。肝心の魂のところがあんなんやから、大変なことしましたな。というような案配でありますな。というふうに、あの事件を聞いてどの程度、思えるかによって、魂の実体、中身が見えますな。「怖い世の中になったね」その程度なのか。「神様怒ってはるで、命をくださってる神様が、激怒しておられるんで」と。「祟りじゃ。」とは違うんよ。そんなもんと違うて。せかっくすべての命をお与えになって、おまけに、神の氏子として魂をくだされて、それをそういう使い方をするという、自分の快楽のためかなんか知らんけれども…。
 例えば小さい子は天使のように言うけれども、小さい子はそういう面も頂いているけども、全然違う残虐性もある。女の子がお人形さんかわいがる。ある時、女の子がその人形を壁へバーンとぶつけてる。「なんでそんなことすんの」と聞いたら、「言うこと聞かないから」と答える。人間はその両面があるのね。それを良い面、かわいい、かわいいする良い面だけを教えていかないかんのね。
 ある小学校の子が理科の時間に、蟻さんを習うた。蟻さんは協力して、餌を運んで巣へ持っていくという蟻の行列を習うた。その習った子供が、砂糖を庭へ置いた。やがて蟻がズーと寄ってきた。理科で習った実験通りや。何を思ったかこの子は、ストーブの灯油をちょっと持ってきて、蟻の列に掛け、火をパッと付けて。蟻の行列はチリチリ…、そして、子供が「ニヤッと笑った。」怖い世界ね。ものすごく怖い世界ですね。それを見てニヤッと。なんぼ、理科や化学の勉強が出来てもこれは怖いよ。非常に怖い。そういう人間として、一番大切なところ、これは知識じゃないんですね、それを教え、染み込ましていくことほど大事なことがあろうか、と思います。「信心なければ世界が闇なり」とこう言われる。そやから、しょっちゅう参って話を聞かなあかんのやということです。有り難うございました。

(平成十年七月二十八日)


あなたは、おかげを落とすタイプ?

 みな、忙しいからなかなかお参りができませんと言う。無理に忙しい時に参れと言うのではないが、おかげを受けていれば暇な日という日があるものか。今日は雨が降ったからお参りしよう、今日は休みだからおかげを受けようと、暇をつくって参り、おかげを受けるがよい。(『天地は語る』一四六)

 新しいご信者さんが段々にお参りなさっておられます。初めて参拝なさる方は、それぞれの大きな問題を抱えて、助かりたいということでお参りなさる。変な話しやけども、馬の前に人参ぶら下げて、「これ食べないかん、これせないかん」ということでお参りなさいます。その時は色々な話しを聞いていても、聞こえてへんねんな。前の人参だけ見えてる。「これがうまいこといく、これがうまいこといく」と言うてもろたら、ホッとするねんな。
 そういう中で、あるお方が一生懸命にお参り出来るようになった。そこには、高校出たぐらいの年頃の娘さんがおられて、どうも親に反抗期の時代や。そんな時代が誰でもある。にわかにお母さんが「信心、信心」言い出したから、お母さん狂うてもうたん違うか思うてな。「何してんねんな。ほんまにもう」という案配。お母さんが急にお参りするようになったもんじゃから、逆にその娘さんが、反抗しだした。それでも目の前の大変なことを、おかげ蒙りたいもんやから、お母さんは娘さんに反抗されながら、ボロクソに言われながらも、お参りをしてる。
 そうすると、目の前の大変な問題、おかげを蒙った。やれやれと思う。これまた人間無理ない。そこから、またピタッとお参りせんようになった。こないだ久しぶりに、お参りをした。
 「お久しぶり、あの件はもう大丈夫か」
 「先生またこんな問題起こりましてん…」
 素直に来るだけ偉いわ。
 「娘にまたボロクソに言われましてん」
 「どない言われたん」
 「そんな時だけ行くのん。お母ちゃんの信心は、ええ加減な信心やな」
 初めて来たときはな、にわかに「信心、信心」言うて反抗された。また大きな問題起こってきて、「教会行ってくるわ」言うたら、その娘に「ええ、こんな時だけまた行くの。ようぬけぬけと行けるな。」と娘に言われた。「それでも助けてもらわねば、どうもなりませんので…」言うて。娘の方が冷静に見とんねん。娘は信心してないけど、冷静に見てる。おもしろいもんやな。
 ところが、娘は親から守ってもうてる方やから、難儀はしてへんねん。難儀はしてないから、冷静に見れる。お母さんは難儀してるから「えらいこっちゃ」思てるから、冷静どころか、家潰れてしまう、家庭潰れてしまう、というような案配。それでも教会に来ればええ、おかげになって行く。おもしろいな、聞いてて娘の方がおおてるな思うて。信心せん娘の方がおうてるな思うて。そんなこと言うてられへん、こっちはお尻から火付いとんやから、なんとかしてもらわないかん、「先生、ご無沙汰してまして、すんません。また、こんな問題起こってきましてん」という案配やな。無理ないことなんですけど…。


 本当のおかげというのは、目先、目先でぶら下がってきたそのものより、もっと大きなおかげをやろう、安心の出来るおかげをやろう、生き生きしたおかげをやろう、うれしい、有り難いものがズーッと沸き上がってくるおかげをやろう、心配せんような生き方が、出来さしてもらうおかげをやろうと、神様が仰せなんです。そういうご信心のおかげなんですが、なかなか人間ちゅうのはそうはいきにくい。
 本当のおかげを頂けるタイプと、目先は何とか上手いこといってても、おかげを落としていくタイプ。おかげを落とすというのは、ほんとの安心のおかげを落とすタイプ。それが出来るタイプと出来ないタイプがありますな。やはり得手勝手の人は無理ですな。自分中心の得手勝手のタイプは本当の安心のおかげが頂きにくいですな。というのは、目先さえ都合よういったら、それでええんやから。逆に神さん使うたらそれでええんやから、特効薬みたいなもんじゃ、神さんな、「えらいこっちゃ、あんた、神さんは助けるの仕事でっしゃろ、来ましたで」言うてな。
 色々な人間、タイプがあるんやけど、自己中心いうか、得手勝手というか、気ままいうかな。このタイプの人は、ほんとうの安心の出来るおかげを頂きにくいね。別の言葉で言えば、同じことの繰り返しばっかりやってますな。「えらいこっちゃ、また起こった。えらいこっちゃ…」と。
 そういう事柄を越えた、大きなおかげを蒙らしてもろていくという、本当の信心にならしてもらうことは、教えが染み込んで、染み込んで、染み込まんと。教祖様が「参れ」とおっしゃる意味は、教えが染み込んでいかな、いかんからやな。質が変わるというか、教えが染み込んでいかんと。ところが、みな初めてお参りする理由は、えらいこっちゃがあるから、お参りするんやからな。こっちが言うてても聞こえてへんねん。「どないしたら、これ上手いこといきまっしゃろか」それしか聞こえてへんねん。それが人間いうものやな。無理ないことなんやけども、もっと大きなおかげを蒙らしてもらう、ということが大事かと思います。有り難うございました。

(平成十年七月二十九日)

言うた通りでっしゃろ。あきまへんわ。

 今の世の中が大変な不景気で、いつまで続くのかという案配でありますが。これは天地の道理であります。これをみな知らん。その天地の道理の一つに、お百姓で言うと、必ず不作の年がある。一生懸命種まきし、田植えし、草取りし、肥料やっても、もうすぐ刈り入れやいう時に、洪水が来たり、風水害でフワーと。「あーあー」言わないかんことがある。天地の道理の中に不作の年があるいうことを知っとかないかん。
 それはどういうことかというと、お百姓で言うならば、土地を休憩さしはるねん。お土地を休ませるの。豊作の時にパッパ、パッパ使うて、不作になったからいうて、来年蒔かないかん種米まで食べてしもうたら、田圃放ってしまわないかんようになる。必ず不作の年がある。
 お商売でも必ず不景気な時がある。必ず、「山」と「谷」というものがある。あのバブルでウワーといったでしょう。それで、バブルが弾けて景気が下がったでしょう。そうせんと、あのバブルのままいってみなさい、日本人ほんまのアホになるわ。逆に人間が潰れてしまういうか、人間が人間でなくなってしまう。不景気という「谷」を作って下されて、「もういっぺんよう考えてみい。何してんねん。よう考えてごらん」と神様が、ちゃんとしてくださる。ということやな。
 そこで天地の道理が解ってたら、あのバブルにもひっかからへんし、ちゃんと蓄えも出来るし、この不景気な時に、どないしていったらええのか、キッチと出来る。ところが同じようにパッパカ、パッパカ消費するもんやから、ダメになってしまういうことである。かと言って事実、もう不景気、不景気で、シュンとしてしもうておる。そういう時におかげ頂くコツがある。
 川柳いうか、都々逸いうか、狂歌にこういうのがある。「商売人殺すに刃物はいらぬ。雨の三日も降れば良い」言うてね。お商売してて。雨が降ったら、お客さんの足が遠のくでしょうが、「ああ、今日も雨降りよって、今日も雨降りよって…」もうがっくりくる。雨に対して不足になる。三日ぐらいでは、別にお商売潰れへんのよ。何が潰れてるか言うたら、その店の主人が潰れとるねん。その心が。もう死んでしもうとる。そやから、「商売人殺すに刃物はいらぬ。雨の三日も降れば良い」言うてね。それで、もうシュンとしてしもうてる。もうそれで、「はあ、今日も雨降りか。今日も客こんか。あの支払いどないなるのやろ」とこうなる。そっちへシューと流れてしまう。


 信心さしてもらう者は、お商売で言うと、お店、そういう畑を頂いてることに、先ずお礼を申さないかんな。田圃を頂いてることにお礼申さないかん。サラリーマンさんでも同じことなんですよ。「不景気で不景気で、もうあかん。会社どないなるのやろ。自分はどないなるのやろ。リストラされるん違うか」そっちの方に、ヒューと心がいってしもうたら、それで動けんようになる。「今日も会社を頂いてる。仕事を頂いてます。有り難うございます」言うて、お礼を土台にせんと、不安やら愚痴を土台にしておったら、「雨の三日も降ればよい…」とこうなる。そうして、総崩れになってきますねん。「ズルズルズルー、ダダダダッーと。あかんは、あかんわ、やっぱりあかなんだわ。ドボーン、世の中が悪いー」とこうなる。まあコース決まってある。大体見えてる。
 それでお願いに来てでも、「もうあかんわ」ということを、言いに来るお願いが多いですね。そしたら「もうあきませんわ」言うて神さんにお願いせなならん。「氏子が、あかんわ言うてまっせ。やっぱりあきませんわ。どうしまんねんな…。」
 「どうぞ、『あく』おかげを頂きますように、御用に立たせて頂きますように、今日も有り難うございます」言うてね。お礼を申して、お礼を土台にしてたらね、あいてくる。上手いこといってくる。
 お願いに来ても、「社会がこんなのであきませんわ。」そしたら神さんに「『あきまへんわ』言うときますのか」。逆に都合いってる時はどないしてん。ちゃんといってた時はどないしてん。我が力で、我が勝手にしてな、パッパカ、パッパカ使こうてな。今それ来てるの。
 今更、そんなこと言うてもしゃないから、おかげ頂いてもらわないかんのやけど…。「あかん」話しばっかり持ってくる。「あく」おかげを蒙らしてもらう。しっかりお願していったらね、「験」をくださる。一筋の明かりをくださる。お願いしたら、皆、棚からぼた餅みたいに全部もらえる思うてる。そんなの、ド厚かましいこと…。おかげの種、おかげの元を必ずくださっておる。ところが、「十」の内、「一」、おかげもろうても、「あと九つあきませんねん」とシューと心そっちへ行く。それでは、どうもならん。その「一つ」に、真っ暗闇の中で一妙の光をくださった「ああ神様お働きくだされてる」ということにお礼を申して、その一妙の光の明かりを大きく、大きく育てる信心をさしてもらわんと。長年信心してはっても、「あきまへんねん、あきまへんねん」「せっかく、神さんくれてはるやないか」言うてもあかんな。もう自分で自分の首締めていってる人がほとんどですね。
 「商売人殺すに刃物はいらぬ。雨の三日も降れば良い」まさにその通り。さあ、おかげ頂く時やで、グッと腹くくれる人がどれだけあるか、難儀なこっちゃな。ほとんどダメですな。平生からの信心が、手を叩いてるだけの信心やろうな、自己満足の手を叩いてるだけの信心であって、神様と四つに組む、神様の思し召しを頂いていこうとする。そういう信心は、なかなかよう出来ません。それでも参ってくれば、神様は氏子がかわいいので、神様おかげくれはりますけどな。
 しかし、同じお願いしてても、「あきまへん。世の中こうだんねん。やっぱりこうでした。私の言うた通りでした」。そんなこと言うた通りしたって、しゃあないねん。「みて見なはれ、やっぱり言ういた通りでっしゃろ、言うた通りでっしゃろ。あきまへんでした。あきまへんわ…。」難儀なこっちゃ、神さん頂いてへん。手は叩いてるけど、全然、神さん頂いてへん。神様を頂かしてもらわないきません。有り難うございました。
(平成十年七月三十日)