人間は上辺だけで見られない、中身が大事である。
「今月今日で一心に頼めいおかげは和賀心にあり」という見識を落としたら世が乱れる。神のひれいもない。親のひれいもない。(『天地は語る』一一三)
父も私も気性が荒く、いつも意見が合わなかった。その時も何かのことで争い、参拝したところ、金光様は天地書附をくださり、「おかげは和賀心にあり」について、「和はやわらぐで、賀は祝賀の賀である」とご理解をしてくださった。(『天地は語る』一一四)
今家内が、孫を抱かしてもろてるのを、見させてもろて有り難いなと思いつつなんですけれども。娘の乳飲み子を抱かしてもろてる。はたから見たら、孫の無い人から見たら「ええな、あんなんに、はよなりたいな。かわいいやろな」と思う。これは、皆さん、子供のこと孫のことご存知やから、「奥さんええなあ」とそう思う。
今度公園なんかで、全然知らない人のそういう光景を見ても、「ええな」と思う。「ええな、かわいいな」と思うのも皆、同じなんですね。ところが同じ孫を抱いてても、「娘が病気でなあ…」という抱き方と。「娘が死によりましてな…」という抱き方と。「娘が逃げよりましてな…」。あるんよ。言わへんだけでのこと。ところが、こっちから見てたら、「孫さん抱いてはんな、かわいいやろうな」と見えるけれども、その中身は解れへん。別にご事情聞く必要ないのやけれどもね。お母さんである娘さんが、病気か、あるいは亡くなったということもあり得る。変な話、夜逃げ、駆け落ちしよったというのもあるかわからん。
同じ抱いてるにも、様々な中身がある。そやから、人間というのは上辺だけで見られへんねん。形だけでは見られへんねん。中身。中身が大事なの。中身のおかげを頂かんと。「孫ええな。何々やったらええな、あの人ええな」とすぐ思う。
例えば、ベンツ乗って走ってるとするや。「はあ、ベンツなんかええ車やな…」と思う。借金持って、走り回ってる社長もようけあるねんで。「もうベンツしかおまへんねん」と言う人があった。「もう私に残った財産は、このベンツだけですねん。このベンツも売り払いたいんやけど、二束三文ですねん。新しい車買われしません。この頃、誰もベンツの中古なんか、買うてくれまへん。燃費が悪いし…。しゃあないからベンツ乗ってまんねん。」言うて、ベンツ乗ってあっちで借金、こっちで資金繰りし、そのために乗ってまんねん。「残ったのは、これしかありまへんねん。本当やったらこれほりたいですねん…」。
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中身が大事なの。この辺りは晩に女の人が、ええ服着飾って顔も塗りたくって歩いておりますけどな、中身やな。中身のおかげを蒙らないかん。
今月今日、刻々に、いつ何時、ひょこっと、「おとととっと」なるかわからへん。「何!」ということが起こるかもしれん。そうしました時に今月今日、一心で頼めいとおっしゃる。
今日み教えで「天地書附」を頂かれたとある。「おかげは和賀心にあり。和らぎ喜ぶ心であると同時に、今月今日一心に願え」とおっしゃる。一心に願わせてもろていく。ということが大事かと思います。そうしてまた、願わさせてもろたことに、お礼を申していく「けじめ」がつかなあきませんな。どうも今日の人はこの「けじめ」が無い。
例えば一学期を終わって、小学校、中学校、高校と、皆「けじめ」をつけてお礼に来たものはほとんどない。どうも今日、日本人は「けじめ」といことを忘れてしまいましたな。願うこともええ加減…。お礼を申すこともええ加減…。それで「おとととっと、ドボン」なってから騒ぎたおすと…。騒ぎたおした挙げ句、日頃信心の稽古してないもんやから、さてという時に、神様放してしまう。まあコース大体決まったる。誰が悲しむねん言うたら、自分が悲しまんならん。家族が悲しまんならん、神様が悲しまんならん、ということになりますな。しっかりと信心の帯を締めたいもんじゃと思います。有り難うございました。
平成十年七月二十二日)
あんたの心、黒いの付いてまっせ
手や口は手水鉢で洗っても、性根は何で洗うのか。実意丁寧の真でなければ洗えまい。(『天地は語る』一一六)
今日頂いたみ教え「手や顔の汚れは手水鉢で洗うことが出来ても、心は何で洗うんや」というように教えて頂いております。例えば、人と会うて、「あんた、ちょっとここ黒いの付いてまっせ」これは、言えますねんな。「ああ、そうですか、すいません。有り難うございます。」とこう言われる。「あんたの心、黒いの付いてまっせ」と言うと、「もうほっといてくれ」とこう言いまっせ、人間は…。
一年間学院でご修行させてもろた中で、色々なことがあるんです。その信心生活発表やら、感想発表なんかがあるですね。もう名前は忘れてしまったんですけど、四国のご信者さんからこられた女性です。背が小そうて真っ黒けの子でした。ええおばちゃんなってるやろうね。その子が生活発表でこういうことを言う。
私は田舎から出てきて何も教会のことも解らない。金光教のことも解らん。もうおっかなビックリで学院に入りましたと。学院では、三人ないし、四人の部屋なんですね。部屋の皆さんが立派にご修行されてるように思うてな。「すごいな」思うて、もうビクビクしてやって来ました。
同じ部屋になった人達が、これから仲ようしましょうねと。その中の一人が、「ここは、修行しに来るところでありますから、私も足らん所がたくさんあるから、共に足らん所を補うたり、あるいはまた、気付かない所を教えおうたり、そのようにさしもろて、修行さしてもらいましょうね」と言われた。「ああもっともなことや。たいしたことや」と思うた。
ある日のこと、この人ここ足らんな思て、「あなたここいきませんよ」と言うた。すると、『明くる日からもの言うてもらいませんねん』と言うて大笑いしたことがある。
これ人間の実体なんですわ。顔に黒いの付いてると言うてあげると「有り難う」と言ってお礼を言ってくれる。ところが、「あんたの心ひねくれてますな」言うたら「ほっといてくれ」言うてね。ここが難しい。ほんだら、ひねくれたままでええのか、というたらそうじゃない、難儀せなあかん。自分が難儀せんならん、周囲も難儀せんならん。確かに人間ひねくれたり、癖持ってたり、色々な状態があるんですけれども、それでもお参りをさしてもろてて、教えを聞いて聞いてくると、「お前のここ黒いんじゃ」と言われんでも、黒いところがあっても、知らず知らずに洗うて頂くものがある。
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私のお友達の先生に、春木教会の山崎先生がいる。この先生はものをズバッ、ズバッと言う先生なの。一生懸命親切に「おまえここがいかんからや」言うたら、信者さん明くる日からきよれへんな。そりゃそうわな。明くる日からきよれへんわ…。何とか解かってもらわないかんいうて、ズバッズバッと言うたら明くる日からきよれへん…。どないしたらええのやろな…。
それは、誰でもそうやで。しかし、お参りしていたらね、心の黒い所も、知らず知らずのうちに、きれいにしていってもらえる。黒いからしゃおまへんねん、いうのは自分も難儀、人も難儀せないかん。皆、関わりおうてるからね、お参りさしてもろて、自分に関係ないような教えであるけども、その教えを聞き聞きしているうちに、大きゅうならしてもらい、素直な心にならしてもろうていくんですな。
顔や手は水で洗うことが出来るけれども、心を洗ういうことは大変なことですけれども、知らず知らずのうちに年をとります。間違いなしにね。ハッと気が付いたら、五十、六十。あっちゃ向いて、こっちゃ向いている間や。
「あの人、嫌いやわ」言われたら、わやくちゃじゃ。一生懸命生きてね。「あんな年寄り嫌やで…」どっか、ほり込め言われたりな。誰も面倒見てくれない年寄りようけいますよ。ほったらかされてるの。子供いてますんやで、そやのに誰もけえへん。ほんまに気の毒なもんじゃ。それで「この頃の子は…」言うてるけど、その人のあっちゃ向いて、こっちゃ向いてる時間な、そこの時間にええ加減にしてたということや。大事なことしてなんだいうことや。
「光陰矢の如し」とあっちゃ向いて、こっちゃ向いてる人生。タタタッと年いきますけどな。そのあっちゃ向いて、こっちゃ向いてる間が、どうであったか。徳を積ましてもろうてきたか、心豊かにさしてもろうてきたか。きれいにさしてもろうてきたか。これが大事ですな。そうでないと、自分の好き勝手だけやったら、難儀せんならんなと思います。有り難うございました。
(平成十年七月二十三日)
「知らん」という、そこに無礼がある。
昔から、あの人は神様のような人である、仏様のような人である、人に悪いことをしない正直者であるといわれる者でも、だんだん不幸なことが重なったりして、どういうわけであろうかというが、みな、神に無礼粗末があるからである。いくら人に悪いことをしない正直者でも、信心しなければ神には無礼粗末になる。人がよいのと神への無礼とは、また別ものである。信心しなければ、いくら善人でもおかげにはならない。(『天地は語る』一二四)
どんなによい料理屋が隣にあっても、その料理屋のごちそうを食べたことのない人は味を知らない。料理屋のごちそうは食べなくてもよいが、金光大神が話している天地金乃神のおかげは、受けないわけにはいかない。また、多くの人の中には、私は天地金乃神を拝まないがそれでもさしつかえはない、と言う人もある。これは恩を受けて恩知らずというものである。(『天地は語る』一二五)
「昔から神仏のような人でも、段々不幸なことが重なる。それは、神に無礼粗末であるからである」とこのように仰せである。飛び込みで教会に入ってくる人が、段々にありますけれども、「私は何にも悪いことしてませんのにねえ。何でこんな目に遭うんでしょうね」と。「別に人に悪いことしてません。傷つけたこともありません。一生懸命働いてます。一生懸命にしてます。なんでこういうことになるんでしょうね」と、言われる中に問題が二つある。
一つは、特別にご無礼をしてる、特別の何かをしてることではない。その次の御理解で言われる「天地金乃神を拝まんでもいけてるというが、それは恩を受けて恩を知らずである」と言われる部分が一つ。
私は、この金光教というものが、数ある宗教の中の一つという思いはせんのですわ。世の中の人、この世に生を受けた人みんな天地の御恩を受けて、生きてきておるんですよ。ですから、金光教を社会的に見たら、一つの集団として宗教となっておるんですけれども、天地金乃神様は、すべての人間の親神様ですからね。何宗であろうが、かに宗であろうがみんな、天地の間に生を受けて、天地の間に生かしてもろうてしておる。そのことを知らんという、そこに無礼がある。その知らんということに無礼がある。おかげを受けてること、お世話になっておること、そのことが解らんと無礼になってるということ。
「何々をしたから、祟りになった」じゃなしに、日々お世話になっておる、日々に生かしてもろてる。日々にご都合下さっておられる。昼も夜も関わりなしに、お守りくだされておるその神様を解らずに、我が勝手にしてるので、なんぼ人間社会で、ちゃんとしてます言うても人間社会のことであって、一人一人の命は皆神様につながらしてもろうておる。そのことを知らんで我が勝手にしておるので無礼になってくる、という無礼。ですから、金光教とかそんなものじゃない。すべての人に言えることなの。ということが一つ。
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もう一つはですね、ある教会のご信者さんが親子連れでお参りなさった。その息子さんが結婚ご縁が遠くて、うちの教会でご縁頂いている信者さんが、前々からの知り合いなので、「ぜひともお友達の息子さんが、良いご縁を頂かれますように」ということで、『良縁成就の祈願カード』(教会備え付け)でお届けお願いをなさいまして、そのご信者さんも一生懸命に願ごうておられる。そうしましたら、おかげを頂いてご縁を頂くことになった。
こちらの信者さんが、「扇町の先生も大変に御祈念くださってるんやから、ちょっとご挨拶に行きなさい」ということで、先日ご挨拶に来られました。その方のお話です。
男物の衣服、背広の商いをしておられるお方であり、色々と話を聞かしてもらうと、ああ有り難いことやな思うた。その御主人は、親の代からの洋服屋さん。昔はオーダーメイドであった。自分も高校出て、修行に入って、オーダーメイドでさしてもろてきた。同じように修行仲間も段々と年をとってこられている。
そんなある時、今から三十年ほど前、神様に御祈念しておったら「もう既製服に切り替え」というふうにフッと心に浮かばしてもろうた。ところが、自分は腕はいい。オーダーメイドは生地見本さえあったらええねん。あと体型を計ってな、それで作るねん。だからようけ、生地を仕入れせんでもええねん。腕だけでええねんな。
ふと、神様が「これからは既製服に切り替え」と教えて頂いた。しかし、これは大変なリスクを背負うのね。既製服は一着だけおいとく訳にはいかないから、ズラズラと仕入れないかん。それが売れるとは限らへんねん。「さあ、どうしたもんじゃ…」と思うた時、そやけど神様が、教えてくださってるんじゃと思うて、『清水の舞台』から飛び降りる気持ちで、全財産掛けて、あるいは借り入れまでして、既製服に切り替えさしてもらいました。
「それが、先生おかげでございました。あの時、借り入れまでして出来るんかと迷いました」。人間そんなもんじゃ。しかし、御祈念してて、神様にふっと浮かばしてもろて、実行させてもらろうた。同じように修行した仲間が、白内障で今は針持たれへん。年いってくるはわな。なんぼええ腕もってましても、白内障で針持つこと出来ない。それどころか、今はもうオーダーメイドする人はほとんど無い。「有り難いことでございました、おかげをもちましてね。」ということがあった。
そして、こういうふうな数々のおかげを蒙ってきました。み教えを日々頂いて、み教えを元にして、お商売さしてもろてるんであります。「どうぞ、お役に立ちますように、お客さんにお喜び頂きますように」ということを常に願わさしてもろて、また「教会の御用も、一生懸命に勤めさせてもろうて、神様が一々教えてくださいます」とこう言われる。
お商売は仕入れをせないかん。今、夏ですけど、来年の夏の仕入れをもうせないかん。来年の夏が涼しい夏になるか、暑い夏になるか、これは誰も想像つかんねん。予想で全部仕入れをするのね。博打みたいなもんです。来年の夏、冬でも同じこと、冬に来年の冬の仕入れをせねばならん。
ある冬の時であります。仕入れの展示会がある。コートは普通の服よりも高いらしい。ふと気が付いたら、そのコートを仕入れるの忘れてもうた。そうすると、その冬は暖冬であって、どこのお店も一枚もコートが売れませんでした。また、ある冬は、セーターをアホみたいに仕入れてしもうて、「しもた」と思った。返品しようかとも思った。商売は仕入れを失敗したら終わりですからね。「しもた」と思った。しかし、これも、お願いしてさしてもらたんやから、自分でやったやなしに、神様にお願いして仕入れに行かしてもろうて、神様にお願いして仕入れさせてもろたんじゃから、もう返品止めとこということで、返品を止めた。
そうすると、その冬は大変に寒い冬であって、どんどんセーターが売れた。すると、他の店は問屋へすぐさま注文するわね。その時はもうないねん。一年前に仕入れないかんのやから、もうあれへん…。こういうたらなんですけど、この地域では、一人儲けさせてもらいました。一人売れさせて頂きました。そのように我を張らんと、何事も神様にお願いさしてもろたら、神様が良い方に導いてくださる。これが二つ目のこと。解りますか。
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整理しますと、一つ目は、何が無礼粗末になるか、何々したから無礼粗末、祟りに遭うんじゃない。御恩を知らんので難儀をしてくる、天地の間に生かされて生きるすべての人が、天地にお世話になって、神様に日々御恩を受けて、生きさしてもろてるという御恩を知らんので、難儀をする。というのが一つ。
逆に御恩を知らして頂いて、天地の神様におすがりし、お導きを頂いて、生きさしてもらうと、全部足らん所を、全部足していってくだるということ。この二つね。先ほどのこの方のように一年先のことを、せないかんのですな。博打みたいなもんじゃ。そういうところも、ご都合御繰り合わせをお願いしますと、いうことであります。我々はご神縁を頂いてこのように御用さしてもろうてるのは有り難いな思います。有り難うございました。
(平成十年七月二十四日)
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