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次々と起こる問題は神様の宿題

 それぞれに生きるということは、次々と問題が起こってくることです。こちらがやっと片づいた思ったら、よそからお越しになったり、えらいこっちゃな言うてな。ほんとにそういう意味では、次々と問題が起こってくる。もうしんどいなと思っても起こってくる。
 ところが、これが「生きさせてもらう」ということなの。次々と色々なことがあるから、生きていると言える。


 小学校二年生の時に、掛け算の九九を覚えさせられた。あれは苦手やった。三の段言われへんかったら、飯食わしたらへん。五の段ちゃんと言われへんかったら、寝たらあかんやとかな。もう「二二んが四、二三が六…」とあれ苦手で…、大騒動じゃ。
 ところが、六年生になったら、そんなもん何ともない。九九なんてしんどいものと違う。その代わり、方程式というものが入ってきよる。「はあー、難しいなあ」とやっと方程式終わったら思たら、今度、幾何学いうのが入ってきよる。「ウェー」。その時、その時だけ見たら嫌なことばっかりやねん、しんどいことばっかりやねん。「ああしんど、ああしんど、またか…」早よ学校卒業したいなと思た。何でか言うたら、勉強嫌いやから。「学校無かったら、こんな苦労せんでもええのになあ、試験ないのにな」と思う。
 学校卒業したら、どうなるのかいうたら、今度は違うことがきよる。まだ、学校時代の英語や数学は何月何日から試験やと、言うてくれはる。学校の先生が、ここ出るでと教えてくれはる。そこ一生懸命やれば、それでええ話。ところが、学校を卒業して、一般社会に出ると何が起こってくるか解らへん。それも不意打ちに起こって来たりする。まだ、入試やいうたら、でる範囲も決まってあるし、日にちも決まってある。
 ところが人生で起こってくるやつは、そんなの関わりない。いつお越しになるやら、どんなことお越しになるやら。「ええ、まさか、何」というようなことばっかりや。予想つくことぐらいやったら、まだかろうじて、手だてをしますがな。予想つかんことが起こる。そういうことやな。
 一生の間がそういうことかもしれん。年いったら楽になるかいうたら、年いったら、楽になるどころか、行くところあらへん。かわいそうに。一生懸命やってきて、年いったら楽にならしてもらえるかいうたら、とんでもない話。今度は住むところが無い。難儀のことが起こってくる。
 世間一般ではそうなの。ところが信心させてもろて、神様に向かうと、その諸問題が起こってくるが、これ神様からもろてる宿題ですんや。一つ一つ大変には違いないんやけれども、これで神さん何教えてくれはんのかな。これを頂いたらどうなるかな。こう頂かしてもらう、ああ頂かしてもらおうと思て、大変と思わんと、頂くことに向こうていく。
 そうすると、お徳いうものが積んでくる。先ほど言いましたように、小学校二年生で往生した九九が、六年生になったら、何ともない。というふうに徳を積ましてもろてきたらね、今度は年とって信心して、徳を積ましてもろたら、大変におかげをこうむる。それは私の親を見ても、他の人を見てもはっきり解ってる。みな自分の目の前に起こってくることでギャー、ギャー言うて、逃げとうて、愚痴不足ばっかりやってるので、一つもそのことが身に付かん、お徳になってこん。
 体が動かんようになったら、邪魔者になるの決まってある。また体動く間、使うてもらえる。体動かれへんかったら、あの人邪魔です、というて家族からも邪魔、社会から邪魔、かわいそうなもんじゃ。ほんとに気の毒なことじゃ、一生懸命生きてきたのに…。
 ところが、その生き方の中に神様ありがとうございますというお礼を申しつつ、どうぞこの問題を私の宿題にさせてください、この問題を通して大きくならしてくださいと、お役に立たせてくださいと、前へ向かしてもらうことによって、お徳を頂く。年を取ったときに、ああ、さすがになあと。それを孔子というお方も、「徳は孤ならず」と言ってる。教祖様は、「信心して年がいったら、位がつくもんじゃ」と教えておられる。私の周辺のお年寄りは皆幸せです。ほんとに、大事にしてもろうて、おかげをこうむっておられます。それが本当のおかげじゃなあと思います。有り難うございました。

(平成十年七月十六日)


めぐりの九割は自業自得

 信心する人は、めぐりを取り払ってもらっているのであるが、信心しないで、うかうかと暮らす人は、めぐりを積んでいるのである。(『天地は語る』八五)

 めぐりめぐりと先祖に罪をかぶせて自分をあらためようとせぬ(四神様み教え)

 今日は、御理解の方もめぐりのみ教え、カレンダーの方もめぐりの話ですね。めぐりめぐりと親先祖のせいじゃ言うけれども…、九割方は自分で積んだもの。自業自得。これは大事なことなんですよ。自業自得の中にね、もうすぐ試験くるのに勉強せなんだという自業自得と。物事解らんで、右せなあかんのに、左へ行って難儀する自業自得とがあるわね。自業自得に二つある。
 みんな一生懸命生きて、ほんとやったら、右へ行かないかんのに、左へ行ってしまう。解らないからね。一生懸命左へ行ってしまう。そういうことで難儀をしてくる自業自得と。
 試験がくる、テストがくるの解っていて、「勉強せんか」言われても、「ああする、する」言うてるうちに「ああ、来てもうた」言うてね。「みてみい、この点は」これも自業自得や。自業自得に二通りあるというのを、今日は覚えて頂きたい。


 「世間になんぼうな氏子あり、取次助けてやってくれ」これは、立教神伝と言いまして、安政六年、教祖様に神様がお頼みになったものです。
 「此の方のように実意丁寧神信心いたしておる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次助けてやってくれ」と。教祖様も信心深かくて、あちらのお宮さん、こちらのお寺さんへお参りなされて、一生懸命拝まれて、村のため、家のためにも一生懸命尽くされて、それで難儀された。そのように、あなたのように、実意丁寧に神信心しておるようなものでも、難儀を次々してくる、取次助けてやってくれと。
 私は、一生懸命さしてもろうてます、信心もさしてもろてます、もうどうして良いのか解らん。それで、難儀をしている。それは道を知らないから、難儀をするの。右へ行かないかんのに、左へ行ってしまうという。その難儀がある。歩むのも自分なんですから、自業自得なんですね。教祖様は「私は、尋ねる所が無かった」と。右へ歩んだらいいのか、左へ歩んだらいいのか、これは八卦とは違うんよ。易とは違う。どのように物事を考えさせてもろたらいいのか、どのようにとらしてもろたらいいのか、ということ。
 例えば、お商売とは何か、農業するとは何か、結婚するとは何か、親になるとはどうすることなのか、人と人とはどうあらしてもろたらええのか。日常、我々しておる、様々なこと、それで正しいと思ってやってること、そのことが実は間違いだらけであるということ。信心はこの道理を解らしてもろていくということが大事なこと。
 誰も子供にバットで殴られようと思うて育てる人おれへん。かわいい、かわいいと言うて、この子にはあれを着せよう、この子にはこうしようと思うてね、ああもしてやりたい、こうもしてやりたいと思うて、バットで殴られるんやから、たまらんわな。どうもならん。
 結婚式でウェディングケーキ切っている時に、「新郎新婦初めての共同作業です」と、その時「こいつと別れたろ」思て切るものもおれへんもん。それなのに、すったらもんだらして別れてしまわないかん。商売でもそう。損せんならん思うて、商売するもん誰もおれへん。というふうに、みんな一生懸命取り組むのやけれども、道を知らないので難儀をしておる。この難儀がめぐりの一つにある。自業自得のめぐりの中に。解っていて、「あーあー」言うのと、解らんと歩んで「あーあー」言うのと二通りある。
 解っていて、試験きたのに、勉強せへんかったのは、納得できるんやな。「ああ、やっぱしな、勉強せえへんかったから、この点やな」と自分で納得出来るが。一生懸命歩んでやって、難儀をしたら納得しにくいわな。なんでやねんとこうなる。
 そのような人間を助けてやってくれと、「此の方のように実意丁寧神信心いたしておる氏子が、世間になんぼうも難儀な氏子あり」あなたのように難儀をしている人が、なんぼでもおると。それを助けてやってくれと。


 例えば、子供の養育の話での一例を申しますと。
 上の二人が女の子で、三年ぶりに男の子を頂いて、家族もうれしゅうて、うれしゅうて、お母さんもね。それがはや六年生になってる。その子がまともに言葉よう言わへんねん。物事の表現をようせえへんね。
 私は、その子が幼稚園ぐらいから絶対そうなるでとみてた。お母さん一生懸命やってる。「これは何色ですか」と子供に問うてる時に、お母さんが「赤です。赤色でしょ」と先言ってしまう。子供が「うん、…」と考えてる最中に「赤色。赤色でしょうが」と言うてる。絵本で蝶々みせて「これ何ですか」と聞いたら、「うん、…」と考えている間に、先にお母さん「これ蝶々でしょ」言うてる。子供はもの言われへんねん。先にお母さん言うてしもてるから…。まあ、これ中学になったら、ものすごく反抗するやろなと思う、家庭内暴力が、へたしたら起こる可能性あるやろな思うて見ている。
 お母さんうれしゅうて、かばうの専門や。他の人がこれ何と聞かれた時に、かわいいから、先に答えを出してしまう。かばわないかんと思うてね。子供が言う前に、お母さん「タッタッタッー」と答えてる。「ああこりゃあかんな」と。案の定、六年生になっても、ものをよう言わん。「これどういうこと」と尋ねると、後ろのお母さんが先、答える。何にも子供の出番あらへん。下手したら反抗期になった時に怖いなと思う、「わしにも言わせ、わしはわしじゃ」と言うて反抗する時が必ず来る。これは怖いなと思う。しかし、有り難いことに、教会に来ておりますので、他の面で自分の事を出せるように、ならしてもろてるので有り難い。
 「これ何ですか」「はよ答えな、蝶々でしょ。あんたはドンやから」この次にドンがくる。「蝶々でしょ。あんたはグスやから」グスちゃうねん、考え中なんや。先にお母さん答えるから、六年生になっても物言われへん。表現をようしない。かわいそうなものやな。親も一つも悪いと思うてない、一生懸命子供かばうてる。まあ、それでも教会へ参拝しているんで、違う面で自己主張、自己発散をしてるから、大丈夫と思いますけども、普通、信心してなかったら、怖い親子になってるやろなと思います。


 これも物事の道理が解って解らん。かわいいということは同じなんですけど、三年ぶりの男の子でうれいしい、うれしいと。これは親の愛情で大事なことなんですけど、その次に愛情の出し方、これ一つのケースです。道が解らん。盲愛になってしもたんやな。一生懸命、愛情注いでるお母さんに「あなたが悪い」言うたら、明日から教会けえへん。余計に難儀なことになる。それやから、お願いをしていくしかない。違う方面でカバーをして、その子供が生き生きしていくようにしていってますけどな。
 というように人間というのは、不完全なものなんですな。めぐりって積まなしゃあない。はっきり言えば、良かれと思うてやったことが、どんどん悪くなることがある。これがまた人間というものや、これを「難儀な氏子」とおっしゃる。私はちゃんとしてますと言うても、じゃじゃ漏り。しかし、それが人間じゃと思うた時に、神様におすがりして、足らぬ所は足してください、解らんところ、解らしてください。
 そのお母さんに「あんたが悪い」言うたらノイローゼになるで。一生懸命、愛情注いで大きくしてきて、「あんたが悪い」言うたらノイローゼにならないかん。しかし、人間とは皆そんなもの。正しい思うてやってじゃじゃ漏り。ようやったと思うてもじゃじゃ漏り。足らん所だらけというものが実体であります。そうした時に、どうぞ私はこれしか出来ません、あるいは気付かしてください、解らせてください、フォローしてください、導いてください。というお願いを日々さしてもらわんと。
 この間の橋本首相みたいなものじゃ。良かれと思うたものが全部スカタンしてる。それでとうとうクビや。かわいそうに。あの人かて、日本を悪くしよう思うてやってるの違うねん、良かれと思うて、手を打ってるんね。全部、逆目や。裏目、裏目に出てる。そんなものじゃ。人間というものは、賢い人でもスカタンする。そういう自分であると見た時に、どうぞ神様よろしくお願いいたしますと、日々のお願いをしかっりさしてもろて、足らぬ所、解らぬ所をスカタンの所を足していってもらわな、相済まないことになってくるのです。有り難うございました。

(平成十年七月十七日)

神様はつきまとってお守りくださる

 日に日に生きることが信心である。(『天地は語る』九一)

 天地金乃神は天地を一目に見とおし、守っておられる。人間は神の氏子、神のおかげを身いっぱいに受けるように、この身この心を神に向けて信心せよ。何事も無礼と思わないで一心に取りすがっていけば、おかげが受けられる。枯れ木にも花が咲くし、ない命もつないでいただける。わが身におかげを受けて、難儀な人を助けてあげよ。(『天地は語る』九五)

 我々もちょっと旅行したりしますと、あちらこちらに、お宮さん、お寺さんがたくさんあるのを見ます。立派なお寺、お宮もあれば、ちっちゃな祠みたいなお宮などもあり、それだけではなしに、教会もたくさんあります。電信柱に「除霊」と看板書いたものも張ってあるし、賑やかなこっちゃと思う。西洋の人が、日本はものすごく、ようけ神々がありますんやなとビックリしている。
 面白いことに、それぞれの神仏に専門がある。「ここは安産専門。ここはでんぼ専門。ここは縁談専門。中には縁切り専門」縁切りは木船のお宮さんね。商売繁盛、田植え、雨降り、旅行、交通安全、入試と様々…。それぞれ専門の神仏がたくさんあって、人々はその時々の自分の状況のところで、お産のことをお願いに行く神さん、入試の時お願いに行く神さん、良縁をお願いする神さん、あるいは縁切りに行く神さん。その時々の自分の状況の応じて、それぞれの神仏を選んで、お願いに行かれます。
 それが、悪いとは言われない。人間というものはそういうものじゃ。がしかし、この天地金乃神様はそれより、もっともっと命そのものからの神様。ですから、先ほどの御理解の中で、「日に日に生きるが信心なり」と。「生きてまんがな」とは違う。生かされて、神様の天地の大御恵で生かされて生きている、そういうことが解るのが信心である。
 生きる内容に、でんぼもあれば、入試もあれば、良縁もある、確かに色々ある。その前にまず、命を頂いて、天地乃神様から命を頂戴して、その命を生きさしてもろてる。自分が生きてるように思うけど、神様が生かしてくださって生きている。
 別の言い方をすれば、神様と共に生きている。それが天地の親神様。それが「日に日に生きるが信心なり」ということ。それで「何でも願え」と御理解九五に「何事も無礼と思わないで一心に取りすがっていけば、おかげが受けられる。この身この心が神に向けて信心せよ」と言われ、専門とかそんなのじゃなしにと。
              ○
 例えば、でんぼさんおかげ頂いたら、それでええのか。そんなもの違うわな。今、たまたま、でんぼできて困ってることであって、でんぼさえ治ったらそれでええのか。「いや、それでよろしいおまんねん。後は神さん用事おまへんねん。私でやりまんねん」そうじゃない。命が無かったら、でんぼもへったくれもあれへんがな。命そのもの、生かしてくださる命そのものなの。神様と共にそういう中で、色々な出来事が起こってくる。ですから、「何事も無礼と思わないで一心に取りすがっていけば、おかげがくださる。この身この心を神に向けて信心せよ。何事も無礼と思わないで一心に取りすがっていけ」と。
 無礼いうたら、無礼だらけかもしれん。まず、神様に頂いた命。これ、誰でも、お産した時はすごいなと思う。「命ってすごいな」と信心せん人も、皆必ず思う。しばらく経ったらコロッと忘れて、「わしの子じゃ」と言い、全然違うてくる。その時点で、ご無礼と言えばご無礼や。天地金乃神様から頂いた命が、我が勝手に出来ると思ったりする。その時点で無礼と言えば無礼である。そんなこと言い出したら無礼ばっかりや。それを「無礼と思わないで一心に取りすがっていけ」と、「この身この心を神様に向けて、一心に取りすがっていけ」と、このように仰せられる。
 でんぼさえようなったら、よろしおまんねん。結婚さえ出来たら、よろしいおまんねん。結婚してすぐ別れたら、どないすんねんな。かっこつけへんがな。もうアホやな言われんならん。「引っ付きたい、引っ付きたい。一緒になるんや」言うてすぐさま別れてもうたら…。この頃、そんなんばっかりや。そうしたら結婚さえ出来たらいいのかいうたら、そうと違いますんやな。専門、専門ということではなしに、これさえ何とかなれば、それでええじゃなしに、生きるということは寝ても覚めても、お恵みを頂いておるということ。
              ○
 例えば、昨夜休ましてもらい、寝さしてもらう。その間、心臓は動いてくれてはるわな。体の新陳代謝はしてくれてはるわ。大変な天地の恵を受けておる。鼻提灯出して、クワァーと寝ておるんか知らんけど、その最中も、神様は働き通しに働いてくだされて、今ここにある。そこのところをしっかり頂いて、「何でも願え。一心に取りすがっていけ。この身この心を神様へ向けよ」ということ。
 もうちょうと具体に言わしてもらうと、「ただ今から、どこそこへ行かして頂きます。神様どうぞ一緒について行ってくださいませ。ただ今からお商売、お仕事させて頂きます。どうぞよろしくお願いします」と、簡単にパッとその場で心中祈念をする。
 「ただ今から、食事の支度をさせて頂きます。どうぞよろしゅうに」その場、その場で神様と共にという気持ちを持つ。そうすると神様は、つきまとってくださる。大きなことも小さなことも、神様にこの身この心を向けて、命のこと全部のこと、その命は自分だけではなしに、みな関わりおうてますよってな。その関わりおうてるそのことすべてを、神様にその身その時にお願いさしてもろうていく。
 困った時に、困った時だけお願いしてもあかん。「神様、大騒動でっせ」言うて、お願いしているんじゃなしに、もう生きること全部神様と共にある。そうすると、神様の方が先へ回って、危ない所は守ってくださり、大難は小難にお守りくださる。あるいは人間のことやから、右行かんならんのを左行ってたら、パッと神様ノックくれはる。「そっち行ったらあかんで、こっちやで。間違うたらあかんで。そっち行ったらドブやで、入まってからでは遅いで、こっち行き」というふうに、その都度その都度、ノックをくだされる。それを「わしがやるんじゃ」言うから、「ドボーン」と入って「あっ痛いタタタッ」とこうなってしまう。生きることすべてを、神様がお守り下されているんであります。有り難うございました。

(平成十年七月十八日)