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知・情・意

 人間には、知・情・意という三つの要素があります。知恵の知、情けの情、物事を成していこうとする意志の意。知情意という心の働きがあります。この三つによって、なっておるんですけども。この三つというのが等分されているわけではない。三分の一づつね、知が三分の一、情が三分の一、意志が三分の一と、そういうものではない。だいたい情が八割で、あと一割づつやな。というのが人間であろうかと思います。
 例えば難儀をしている人を見て、こちらが知識をもって、「あんたそんなことでくよくよしなはんな」。くよくよしてるから、くよくよしてるんね。なんぼ知識で言うたかて、そのことが辛いのでくよくよしてる。情のところでくよくよしている。
 そして、物事がしんどくなったり、辛くなったりすると、何とか解決せねばならん。知恵を働かす。こうしたら解決するか、ああしたら解決するか。という知のところで解決しようとする。事柄によったら、知恵のところで解決せねばならんこともたくさんある。物事をしていくのに、順序をこうしたらええとか、物を売るにもしても、このような売り方をせねばならん。あのような売り方をせねばならん。製造するにしてもそうです。そういうふうに、知恵を働かして、要領をちゃんとせねばいかんとか、知恵を働かして物事をさしてもらうということも大事なことであります。
 その次に物事を解っていてでも、物事が出来なんだらいかん。これは意志の働き。というところがあります。
 ところが、今日、不景気になってきたら、ようけ「○○セミナー、経営セミナー」がたくさんあって、その知のところをどんどこ、どんどこ教えておるんですけど、これよく間違う。
 根本は情の人間ですから、なんぼ知識でガアー、ガアー言うたかて、動きませんのよ。人間が物事をしていかねばならん。その物事というのは、頭でなんぼわかっても情のところで、情が八割の人間ですから、情のところでさしてもらう。そうして物事が出来てくるということがあります。問題があっても同じことであります。
 物事をするとき、「あの人には、ああもしてあげたいな。こうもしてあげたいな」ということがある。それは情の働きのところで、こうもしてあげたいな、ああもしてあげたいな、ということが生まれてくる。というふうに、情という心のところが大事なことがある。問題が起こった時に、こうすれば、なんとかなるやろか。ああしたらなんとかいくやろか。こうしたら解ってくれるやろか。という知識のところで、物事をしようとするんでありますけれども、安心をさしてあげるというものがいる。


 小さい子供が外でケンカしたり、いじめられたりする。ワアーンと泣いてとんで帰ってくる。お母ちゃんに言うてくる。お母ちゃんの膝へ飛び乗ってウエーンと泣く。お母ちゃんがよっしゃ、よっしゃ言うて頭を撫でる。かわいそうに、かわいそうに言うて頭を撫でる。それで子供は助かってゆくところがある。
 何も特別のことしてない。大きな懐に包まれることによって、その子供は助かっていくとことがある。それを、「何、あの子がいじめたんか。よっしゃ」いうて子供のケンカに親が出ていったらね、向こうは向こうで、「何言うてはりまんねん」と言わなならん。そこでうろたえない親というか、無条件でこう包める親の広さというものが、人を助けていく働きなの。すぐ手だてをすぐ考えてしまう。ああしたらどうなるやろ、こうしたらと…。
 知恵の働きでね、手だてを先考えしもうて、返ってしんどくなることがたくさんあります。母親は何もしないですね。ワアーと泣いてきた子供に対して、何もしない。「よっしゃ怒鳴りこんで行ったる」というわけでもない。よしよし、ここが痛いんかよしよし、というて頭を撫でてもらう、そのように大きな懐に抱かれることによって子供は安心して、元気になって表に遊びに行って、さっき泣かされた子と一緒に遊んどる。おもしろいものでんな。
 そこへ親がしゃしゃり出て「コラッー」いうたら、二度とお友達ができんようになってしまう。「あんたがうちの子泣かしたんか」いうてやりにいってしまうと。もうそれで、子供同士の遊びができんようになる。かわいそうに、かわいそうに、よしよしとお母さんの懐で泣きやんだら、また遊びに行って、泣かされた子と一緒に遊んでる姿。
 あれを見たときに、色々手だてもいるが、たくさんいるんだけれども、大きな心で包むという。それは待つということもあるやろうし、祈るということもあるやろうし、ついついと物事がしんどくなった場合は、こうしたら上手いこといくやろか、ああしたあら、上手いこといくやろか、手だての方ばっかり先に考えて、手を打とうとする。そうじゃなしに、もっとこちらの心を大きゅうならしてもろていき、どっしっとさしてもろてき、少々の事ではびくともしませんでという心にならんならん。


 例えば子供が、テストで二〇点しか取ってこなかったら、「こんな成績で高校行けると思てるの」やります。「おお、二〇点か。がんばったんか。そのうちなんとかなるで」言うて、二五点になったら、「おお、ようがんばったな。おお五点増えたやないか。ようがっばたな」と言うか、二五点では高校行かれへんのやけどね。「あんた二五点ぐらいでどないすんの。あそこは九〇点取らな行かれへんねんで」そう言ってしまうか。そこのところでしょうな。
 そこらのところ「二〇点取ったか、まあ一〇点よりましやな」。そうせんと、子供はおもしろいもので、良い点の時しか親に見せよらへん。悪い点は引き出しに隠しとる。あれ反対やねん。悪い点の時、親に見せなあかんのにな。ええ点の時しか、親に見せよらへん。あれは親に叱られるのがイヤやから、責められるのがイヤやから、ええ点の時だけ、親にええ子やええ子や言うてもらえるからな。
 それをみると子供は、ええ子やええ子と言うてもらいたいねん。本当やったら、点数悪いときに、親に相談して何とかせねばならん時に隠しよる。二〇点取ったのを上手にほめてあげると、三〇点になる。ところが、「九〇点取らなダメでしょ。昨日も遊んでたやろ、勉強しなさい」これをやったら、もうやめじゃ。勝手にせいということになってしまう。
 心配するんやけれども、やはり大きな懐にならして頂くおかげ。天地の間に起こったことは、天地の間に解決するんじゃという、大きな心持ちにならしてもらうという、こちらがおかげを蒙らなければならなん。向こうばっかり、向こうを何とかせねばならん。向こう何とかせねばならんではなく、こちらが大きな心に「そうか、そうか、また何とかなるわい」いうてね…。



 例えば今、二ヵ月になる孫がおりますが、夜泣きをします。この頃は夜泣きをしなくなりましたが、なんで夜泣きするねんといって、親が神経質になったら余計に夜泣きをするんですね。まあ、まあ子供は泣くもんじゃいうて、よっしゃ、よっしゃいうて大きく構えさしてもろたら、子供は、夜泣きせんようになります。何で夜泣きするの…。この頃の若いお母さんは、子供が夜泣きするために、子供殺さないかん。なんで殺さないかんかいうたら、親の心がもう狭もうなってしまうんやろな。まあまあ、夜も泣きよるわいというて、その内、泣き止むわいぐらいの心にね。なんで泣いてるの。赤ちゃんは泣くのが仕事じゃいうてね。ところが、親が先、まいってしまう。


 天地の神様がなんとかしはるわいな。という心持ちに、こちらがならしてもらうおかげを蒙ってくる。そうすると、向こうが安心してくる。安心してくると豊かにならしてもろて、物事が出来てくるということですね。口でいうのは簡単な話なんですが、こちらが安心出来るかどうか、また一〇点、また二〇点思たら安心できないんですけれども、天地の間に起こったことじゃ、天地の間で解決する。まあまあ、あかなんだら、あかなんだで行ったらよしろしいやん。それで行かしてもろたら、ええやないか。とそういうおかげを蒙らしてもらうことが、大事なことかと思います。有り難うございました。

(平成十年七月十二日)


人生にも春夏秋冬

 私は何も悪いことしてませんのに、一生懸命に生きてきてますのに、何でこんな目に遭うんでしょうか、と言われることがよくあります。誰でもほとんどの人は、その人なりの一生懸命に生きてきてる。当たり前のことでして、誰も助けてくれませんしな。自分のことは自分でやって行かないけませんし、また、人に悪いことをしてはならん、人をどついたらあかん。中には刑務所入る人いてますけどな。ほとんどの人は一生懸命に生きてる。
 それなのに、色々なことが出てくる。辛いことが出てきている。何でこんな目に遭いますねんと。私は人に悪いことしておりません。ちゃんと生きて来ました。努力もしてますと、言われるのがほとんどであります。まさにその通り。


 そういう中で、よく聞かれる、何でこんな目に遭うのか。そういうとこで、言うたらいけませんが、けったいな宗教がらみは、先祖が祟ってる、庭の木が祟ってるやとか、名前が悪いやとか、ハンコが悪いやとか、そういうところへ、人の弱みにサーッとつけ込んで、お金巻き上げるところもある。ということはよく考えてみると、自分が一生懸命生きてるから、悪いのは名前が悪い、言うたらホッとするもん。あの庭の木が悪い。そっちのせいにしたらホッとするもん。親先祖のせいにしたらホッとするもん。そこへサッーと入いていくんやな。上手いことな。
 「あんたが悪い言うたら誰もけえへんわ」一生懸命生きてるもん。「あんたが悪いからや」と言われたら、「何ぬかしとんねん」思てしまうからな。これが人間の情や。あんたが悪いからみてみい、と言われたら、解ってても頭来るもんな。それが解らんでも一生懸命、皆生きておる。だからこそ、あんたが悪い言われたら、どたまにこんならん。それよりも庭の木のせいにしたらホッとするし、ハンコのせいにしたらホッとするし、親先祖のせいにしたらホッとするし、お金で済むものやったら、お金で済ました方が楽やし、ということになる。無理もない。
 私は、若い時にその心が解らんで、何人信者はん「さいなら」言うたかわかれへん。あんたが悪い言うたら、明くる日から参ってけえへん。そりゃそうやな。あんたが悪い、みてみい言われたら「くそったれ」思うわな。ということは、人間一生懸命やって、生きてるもの。どうしたらええのか悲しいもの。


 昨日、今日と、このように涼しいおかげを蒙っておるんですけれども、その前は、炎天下が続きましたな。「なんで暑い」言うたら暑いものは暑い。みんな暑いねん。それを耐え忍ばにゃきゃあ、しゃあないやん。
 まだ、夏の暑さ、冬の寒さは皆ご同様やから、「暑いおまんなあ、寒いおまんな」とご同様やから耐えれる。しかし、人生にも春夏秋冬があるんですよ。冬の時期もあれば、カンカン照りもある。お隣さんが春の良い心地で、こっちが真冬であったりな、人生にも春夏秋冬がある。ということは、人間も天地の間に生きておるんでしょう。
 人間、暑い暑い言うてクーラーかけて中に入ることが出来るけど、公園に立ってる木は、どないすんねん。かわいそうに。「暑い、暑い」言うたかて、逃げていくとこもあらへん。もう何日も雨降らなければ、ヘトヘトになって「私は一体どうなるのよ」言うてるか解らへん。かわいそうに。
 あの木も、天地の命を頂いてる命。私たちの命は別と思うてるけど、私たちも天地の間の命なんですよ。命から見たら同じこと。そうすると、春夏秋冬があるんですわ。ところが、木は愚痴言わんと。まあ口が無いから、愚痴言わんと必死に堪え忍んでね、がんばってる。そやから、木の年輪を見てごらん。冬の寒い時はギュッと身を引き締めているでしょう。年輪を見たら解るでしょう。あれがあるから、立派な木になる。フワーとなってたらあきません。あの年輪があるから、ギュッと大地に根を張って生きてることが出来る。あの夏の暑さ、冬の寒さをしのいだからこそ、立派な年輪が出来ている。大木になっていく。
 人間も同じように春夏秋冬がある。ところが季節の春夏秋冬は、皆さんご一緒やけれども、人間にお与えくださる春夏秋冬は、皆、個別的なの。隣は春でな、こっちが冬やったら腹立ってくるで。よその花が余計にきれいに見える。なんでうちばっかりと思わなならん。


 ご承知の通り私は、梅田の繁華街で住んでおります。曾根崎小学校へ三人の子供を卒業させてもろた。全校生徒、百人あるなし。そやから、ピカピカの一年生から、六年生まで皆クラス替えも何もあらへん。一クラス二十人あるなしの時でした。一年生から六年生まで、もう兄弟みたいなものやな。誰々さんのお家のご事情まで全部解ってしまう。
 まあすごいですね。火事、倒産、夜逃げ、離婚、子供が亡くなる…。かわいそうな子はね、三回も名字が変わってるんの。「おっちゃんもうイヤやわ。名字変わるの」、かわいそうに、何遍も名字が変わった子がいてた。子供、皆兄弟みたいですからね…。
 そのわずか六年ですよ。六年の間に大変な人生。二十人足らずのそのご家族の半数以上が、大騒動起こってる。見事なものです。その中の一人のことをお話しましょう。
 べっぴんさんの奥さんでしてね。かわいい顔してる奥さんでした。今から二十年も前の話ですからね。PTAの副会長もしてくれ、そこの子供がまた勉強よう出来る。御主人が土建屋さんで職人さん抱えてお金持ちや。お金持ちで、商売繁盛して、奥さんぺっぴんで、主人がやさしゅうて、子供は頭がよくて…。これいうことあらへんがな。結構な話やな、誰が見てもええなと言うようなものじゃ。
 それが、その子供が授業のマット運動で、首をひねって障害を持ち、特殊学級へ行かなならんようになってしもうた。はあ、えらいこっちゃ、入院して学校もPTAも大騒動。しかし、学校の責任違います、うちの子がふざけたからですと…。別に保障問題もなさらずに処置された。そうやけども残念ながら、優秀な子であったけれども、特殊学級へ行った。奥さん髪振り乱しておった。
 それから、数ヶ月、半年経たないうちに御主人が、交通事故を起こした。植物人間になった。そうすると、お商売いうのは、回ってるからこそ利益がある。止まると利益がなく、マイナスの方が多い。さあ、子供は障害をもってしもた。御主人が植物人間。会社は潰れる。店は借金。どないなる、女の細腕ではとても無理。髪振り乱して、がんばり張りました。しかし、とてもとても女の細腕では無理でした。とうとう御主人、子供さんほって逃げはりました。
 もう逃げるしかない。それを、なんという人と私はよう責められない。耐えかねてね。倒産して、自己破産して、子供は施設に入れないとしゃない…。えっ、まさか、といことが起こった。誰のせい、なんて言うてる暇もあらへん。誰が悪い、言うてる暇もあらへん。本当にお気の毒でした。
 そんなのが六年間の間に半数以上ある。二十人足らずのピカピカの一年生から、蛍の光までの六年間の間に、形が変わって半数以上ある。これが事実です。「なんで…」言うてる暇あらへんの。その何で暑いねん、暑いから夏じゃと思うてそれを頂ききれる、乗りきれるお力を頂戴していく。
 もう一つ言えば、「今日も暑いおまんな」というたら、あっアイスキャンデー売れるな。いうぐらいの気持ちになるこっちゃ。「暑いな。今日も働くのイヤやなと皆思う。今からまた会社行くのイヤやな。」それは皆ご同様じゃ。がしかし、その暑い時に、今日はアイスキャンデー売れるで。よし百本売ってみよう。と逆に暑さを頂ききって、がんばらしてもらう。身につかしてもらういう、ここが大事です。
 春夏秋冬は、季節だけでなしにそれぞれで頂きます。生きるということはそういうこと。天地の命はそいういうもの。ところが、隣は春で、自分は冬の時がある。隣はええな、私は惨めなやなとこうなってしまう。そこを気をつけさせてもらわなければなりません。有り難うございました。

(平成十年七月十三日)


理屈では助からん

 今は学問の世の中で、理屈はよく言うようになったけれども、天地と神との恩義をしだいに知らないようになったから、難儀がしだいに多くなっている。(『天地は語る』七一)

 教祖様が御用くだされたのは、江戸時代の末から明治の初年にかけてであります。ご承知のように江戸時代は鎖国というて、外国とは交流しなかった。ところが黒船騒動が起こって、ちょうど今、NHK(徳川慶喜)でやってますな、あの通り。あの真っ最中に教祖様が御用しておられます。勤皇、佐幕でチャンバラやってる、黒船騒動、蛤御門の変、勝海舟やら桂小五郎、西郷隆盛…。そういう時代に、教祖様が金光の片田舎で人を助けて御用くだされている。
 そういう中で、江戸幕府が倒れて、明治維新になっていよいよ開国が激しくなってきた。世の中の西洋の文物、色々な考え方、学問やら、珍しいものやら、例えば陸蒸気やとか、珍しいものがどんどん入ってきた。今までは四つ足物は食べたらいかん言うてたのが、牛肉食べてもええということになったり、それはもう、百八十度の大転換が明治維新になされた。
 どんどん、どんどん珍しいもの、物の見方、考え方、学問もが入って来ておる。その西洋の学問の基本になることは唯物論という学問。すべての事柄は物で出来ているという唯物論というのが基本になっている。学問が進んでいくのは正しいことなんでしょうけども。


 その中で、天体のことを取り上げてみますと。今まではお日様を日天子様と手を合わせ、お月様を月天子様と言うて手を合わせる。そうではなくて、あれは惑星の一つなんだと。というような天文学も入ってくる。その学問がずんずん庶民にまで、色々なこととしてずっと拡がってくる。 教祖様の元へ参ったある人が、「金光様、あの日天子様は神様と違いますで、あれは機械みたいなものでグルグル回りまんねんで」とこういうふうに言うた。
 それを聞かれて教祖様は、「今はようことが開けましてのう。あの日天子様が機械ということになりましたなあ。機械にいたしましても便利な機械でありますなあ。赤い物を緋と言います。緋じり綿じゃの緋毛氈じゃの言いますが、暗い所で振り回しても明かりはとれません。例え機械にもせよ、明かりを見せておりましたら、お礼を申さねばなりませんなあ」ということを教えておられる。
 あれは機械みたいなもので神さん違うんじゃと。便利な機械ですな。機械に明かりを見せてもうていたら、その機械にお礼を申さねばなりませんなあと。このように教えておられる。ここが大事なところでしてな。
 神様いうたら神棚の中におられて、あるいは山の上におられてというんじゃない。お世話くだされるものすべてが神様なんでしょうな。お世話くださっている、人間が生きていく、その中で自分たちをよいようにしてくださるお働きすべてが神様なの。そのお世話になることにお礼を申して行かねばなりませんなあ。


 これが西洋文明が入ってきた唯物論であり、戦後の日本は唯物論の塊や。人と人が拝み合うこと。親子でもそうです。親を拝むということあらへん。子を拝むということ無くなってしもうた。あなたのおかげで、あなた様のおかげでというものあらへん。そんなもの当たり前や、それは養育の義務があるからやと…。親が子供を育てるのは当たり前のこちゃがな。「養育の義務がある。頼みもせんのに産んだ」言うてね。もうどうしょうもない。こんなのを「難儀の塊」言うねん。ほんまに「難儀の塊」やな。それで自分が、助かるんやったらそれでいいよ、そう思ってね。しかし、一つも助からない。親を有り難う思えなんだら、親を拝めなんだら、一つも助からへん。親も助からし、子も助からん。
 理屈は言えても、理屈はあるとしてみても、これが助かることになるかどうか、ここが大事なこと。助からんから親を殺したり、子を殺したりとアホなことせなならん。助かってないからしますんやな。助かってたら殺しますかいな。助かってないから殺してしまう。
 今は大変な世の中ですね、親を殺す、子を殺す言わなならん。有り難う思ってないから、お礼申せないから、手を合わすことが出来ないから。養育の義務やと…。
 義務で子供が育てられまっかいな。アホらしゅうて、権利義務で子供が育てられまっかいな。それが言葉になったら養育の義務言うねん。法律の中ではね、唯物論の言葉になったら、養育の義務言うねん。義務で子供は育てられまっかいな、愛情で育てますねん。そこらのところが全然解っていない、解らん結果が今日の難儀の元ですわ。
 教祖様はそれを百何十年前に、今は理屈がよう解るけれども、理屈では人は助からんよと。お礼を申す心が無くては助からんよと。愛する心が無くては助からんよ言うて。このように仰せになってます。そこを手を合わせていけよと言われてる。


 今日の世の中は間違いだらけ。間違いが五十年も経ったら、おうてるようになる。怖い怖い。その結果が、こういう社会の状況の結果になっておる。これは助からんことになってますなあ。何が大事か、助かることが大事でしてな。
 科学かて、ダイオキシンの問題だってそうでしょう。皆人間助からんことばっかりしておる。唯物論からきている、科学を勉強するのは大事のことですけれども、人間の元は唯物ではなしに、わが心、おかげになるのもわが心、おかげにならんのもわが心、と正に教祖様がおっしっゃている通り。みなわが心一つであります。
 怖いのは、百人中九十九人までが右が正しい言うたら、左の一人は間違うてる言われる。
 例えば、百人中九十九人まで養育の義務があると言うてる。そうではない、神様から頂いた愛情で人は育てていくんじゃ、子育てをしてくんじゃということが解ってない。解ってるけれども九十九人が養育の義務言うたら、一人の考えは、間違うてること言うたことになってしまう。戦後五十年経った今の家庭の状況は、難儀なことですな。
 拝み合い、願い合いが出来る人間に、みなわが心を頂いているんですけれども、そのわが心の出しようが間違うてしまうと、難儀ばっかりせなあかん。なんぼ、ええ服着てても、ええ車乗ってても難儀ばかりせんならん。教祖様は百数十年前に、「世の中が開けるのではないめげていくのじゃ」とおっしゃってる、正にその通りでありましょう。有り難うございました。
(平成十年七月十四日)