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名もない、力もない一人のご婦人

 人が人を助けるのが人間である。人間は、子供がころんでおるのを見て、すぐに起こしてやり、また水に落ちているのを見て、すぐに引き上げてやることができる。人間は万物の霊長であるから、自分の思うように働き、人を助けることができるのは、ありがたいことではないか。牛馬その他の動物は、わが子が水に落ちていても引き上げることはできない。人間が見ると、助けてやる。牛馬や犬猫の痛い時に人間が介抱して助けてやることは、だれでもあろう。人間は病苦災難の時、神や人に助けてもらうのであるから、人の難儀を助けるのが人間であると心得て信心をせよ。(『天地は語る』四九)
 一昨日、大阪の環状線、芦原橋にある芦原教会の先生が九十二歳でお隠れになられました。一昨晩は世間でいうお通夜、昨日は告別式にご会葬させて頂きました。
 この先生はご婦人の先生であります。昭和六年にご結婚なさって、御主人の先生と一緒に御用なされ、ところが、ご承知のように戦争に入いりますね。そして昭和二十年三月、御主人が戦死をなさる。その後、続いて三月、六月の大阪大空襲で教会も焼けてしまう。ご信者さんもちりじり、バラバラになってしまう。
 そういう中で終戦を迎え、女の細腕で、まさに、生きること、食べることが事欠く。住むところも。一番基本の衣食住に事欠く。その時に、ご婦人の先生、一人一人が食べて行くことに命がけ、もう人のことなどかもうてられない、我が食べないかん。そういう中にあって、御主人が戦死されたということ。そのことを受けられて、御主人の分まで御用させしてもらわなならん、という思いになられた。
 御主人が亡くなるというのは大変なこと。御主人が亡くなっておられるので、逆に自分の命を捨ててかかった。御用に使こうて頂こうと思われてね。自分は難儀しているけれども、自分の難儀を返り見ることなく、同じように家を失い、肉親を失い、職を失い、食べる物もない、多くの人々を、元気づけ助けられてこられ、九十二歳でお隠れになられました。
 最後は老衰みたいになり、ご家族がおられますから、えらいこっちゃいうことで病院へ入れた案配だけれども、二週間ぐらい前まで、お広前にイスを置いて一人ずっとご祈念をし通され、ただただ、神様に人の事を祈り続け、願い続けて、亡くなられました。口で言えばそれだけのことでるけれども、その非常事態の時にまさに、お先真っ暗、どうして生きて行っていいのか解らん。神も仏もあるものかという時代背景の中にあって、御主人の分まで、御用さして頂こうという思いに立たれての御用、大変なことであったろうな、すごいことやなと思う。
 多くのご会葬の方が来られました。本当に助けられた人たちが、涙流しておれました。真実はそこにありますんやな。


 世間で言えば名もない、力も何もない、一人の婦人であり、老婆の死であります。何の力もなければ、特別財産があるわけで無し、社会的地位もあるわけでなし。ところが、「人一人助ければ一人の神である」今日のみ教えの「人間は人間を助けるのが人間である」とそのように仰せになっておるんですけども、人一人助ければ一人の神とおっしゃる。助ける言うたかて、助けることは出来ない。自分が自分で生きることが精一杯。まして終戦後のそういう時期。
 しかし、その中で、出来ることは、ただ一つある。我が痛みを知って、人の痛みを解らしてもらうことが出来る。我が痛みを知ってね。人の痛みを解らしてもらう。その時に、あの人も辛かろうな、この人も辛いな。どうぞ乗り越えて頂きまするようにと、神様へ願うことは出来る。これは、誰でも出来る。
 目の前のことは、わが身のことで精一杯なんでしょうけれども、そこで、心まで精一杯になりきらずに、わが身が痛ければ、人も痛かろうと思える心。この人も痛い。あの人も痛い。辛い。どうぞ、神様と、向かう心は出来さしてもらえる。それが神様お働きなって、力もない、焼けてしもうても家も無い、教会の施設も何にもあらへん。女の身であるから何も出来へん、どうもできへん。その中にあって、たとえ建物が無くても、掘っ建て小屋になっても、人のことを祈り、願うことは出来さしてもらう。人のことを祈り願い、「どうぞ…」と願ごうておられる。それを一生続けられましてね。大往生のおかげを頂かれました。
 私も役割上、弔辞を読ましてもろうてきたんですが、あまり向こうが大先輩過ぎて、どう弔辞作って良いのか解らへん。こうであろうと想像はつくけれども。余りにも大先輩であられますので、なかなか弔辞も難しかったですれども、一人の大先輩を送らせて頂きました。有り難うございました。

(平成十年七月九日)


どこの宗教が一番効きますやろか

 どの宗教を信じていてもくさすことはない。みな、天地乃神のいとし子である。あれこれと宗教が分かれているのは、たとえば同じ親が産んでも、大工になる子もあり左官になる子もあり、ばくちを打つ子もあり、商売好きな子もあるというようなものである。宗教が分かれているといっても、人はみな神の子であるそれぞれに分かれているのである。そばの好きな者や、うどんの好きな者があり、私はこれが好きだ、わしはこれが好きだと言って、みな好き好きで成り立っているのであるから、くさすことはない。(『天地は語る』五三)
 人のことをそしる者がある。神道はどう、仏道がこうなどと、そしったりする。自分の産んだ子供の中で、一人は僧侶になり、一人は神父になり、一人は神主になり、また、役人になり、職人になり、商人になりというようになった時、親は、その子供の中でだれかがそしられて、うれしいと思うだろうか。他人をそしるのは、神の心にかなわない。釈迦もキリストもどの宗祖も、みな神のいとし子である。(『天地は語る』五四)
 教祖様はどこの宗教がええ、あそこの宗教がええ、あそこが、悪いとそんなことを言うておりません。
 教祖様の元へは色々な人が行かれて、おもしろい話がある。落語で出てくるような、熊さん、八っさんも、教祖様の元へ参って来たり、あるいは学者が来たり、その当時は侍が来たり、お女郎さんが来たり、あるいは部落民と言われてる人が来たり、様々な階層のお方、当時は身分がありましたから、金持ちから貧乏人、浪人、お百姓さんから、色々な階層の人が教祖様の元へ参っておられます。
 その中の熊さん、八っさんという人もようけいてますの。ある時その熊さん、八っさんの一人が教祖様の元へ参り、
 「教祖様、どこの宗教がよろしまっしゃろか」と聞きに参ってる。
 「信心はどこでもええな」
 「とりわけどこがよろしいでしょうな」
 「そうやな、法華がええな」
 「なんで法華がよろしいですか」
 「一生懸命やからええな」
 その熊さん、八っさんはどこがよう効きますか。どこが一番御利益ありますかという意味ですね。教祖様は、どこの宗教信心しても、一生懸命でなかったらあかん言うてはるですね。おもしろいですね。
 また、ある熊さん、八っさんがこのように言われた。
 「教祖様はこの間、『わりきを取って信心せよ』とおっしゃった。わりきを取りましたら、えらい近所ともめまして…
 「わりき?。どんなわりきや?」
 「隣の割木(わりき)持ってきましてん。それで隣とえらいもめまして…。」
 「私が言うたのは、悪気(わきり)で、悪い気持ちを取って信心せい、と言うてんねん。あんたみたいに、よその割木取ってきたらそらいかんわいな」言うて…。
 まあ、人間というのは、得手勝手ですな。
 またこういう熊さん、八っさんもいてます。
 「教祖様、今日はガサエビ(小さいエビのこと)を持ってきました」
 「なんでもええ、一生懸命働かしてもろて、そのお礼にお供えさせてもらたら、神様がお喜びじゃ。無理をしたらあかんよ」
 「はい、どこそこは、うるさく言われますので、ええエビ持っていきまんねん」
 いうて上等のエビ持って行くと言う。(その地方では黒エビのこと)
 「ここは、教祖様はやさしいから、ガサエビでよろしまんねん。どこそこはうるさくて、怖いから良いエビ持っていきまんねん。」
 「あのな、別に私はガサエビで良いが、神様にそんな思いを持ってたらあかんわ」言うておる。


 熊さん、八っさんの話のように思うが人間の正体かもわからんな。「どこが、よう効きまっしゃろか」「どこの宗教が一番効きますやろか」言うてるのと同じやな。
 それに対して教祖様は「一生懸命がよろしいな」また、教祖様のみ教えも、自分の都合、勝手のええ方ばかり取って、よその割木を取ってきてもめないかん。ほんとうに人間の得手勝手。
 お供え一つにさせてもろても、こっちはやさしいからとか、ひも付きやったり、ええ加減なところでやってしまうところに人間実体がある。しかし、教祖様は、そやからいかんとおっしゃってない。それもそれなりにおかげを受けてくれ、言うておられる。
 例えば、子供でも中にはあんぽんたんもいてる。そやからおまえあかんのや。と言いはれへん。いやいや、それなりにおかげを受けていってくれ。助かっていってくれと。そやから、先ほどのみ教えはおもしろいですね。一人は僧侶になり、一人は神主になり、一人はばくち打ちになり…。「困るが、ばくち打ちになったら…」えらい対比が違いすぎるわね。そんなものも世の中にはいてる。そうや、そのようなものもいてる。だから、どうぞ、そこからおかげを受けていってくれ。どうぞ、道を解ってくれ、生き生きしてくれ、釈迦もキリストも皆、天地の間のもの。神の氏子、皆おかげを受けてくれという大きな神様を、私たちに教祖様は教えて頂いておる。有り難いことじゃなと思います。有り難うございました。

(平成十年七月十日)


お礼上手は「お徳」を頂く

 私たちは、日々生きてる中に色々な事に出会ったり、その中に辛い悲しいこと、気にかかることがあったり、あるいは、お先真っ暗や、ということがあったり、色々なことに出会います。人間はそんなこと、嫌いなほうでね。人間というのは、ずぼらなもので、いつも春の良い心地が欲しゅうてね。石の地蔵さんみたいだったらええのに…。しかし、そうわいかん。
 宝くじ。梅田の地下でもようけ並んでまっしゃろ。あるいは馬券売場にもようけ並んでますな、当たってどないすんねんなと思う。当たって、どないなんねんな思う。その後ね、なんの為に当たりたいの、それは金欲しいから…。お金儲けてどないすんねん。あれ欲しい、これ欲しい、遊びに行きたい、それでどうやねん。突き詰めたら何もあらへん。
 なんしか、楽をしたい、贅沢をしたい、気ままになりたいというのがどうも、人間の本性の中にある。でありまするんで、物事がしんどいことが起こってきたら、それできりきり舞いしてしまう。そのことがイヤやからね。きりきり舞いしてしまう。辛い、辛いになってしまう。それで、いつまで続くか、という気持ちになってしまう。


 肉体で言えば、歯一本でも悪ければ、もう痛い痛いとなってしもうて、口の中の舌が触らんでもええのに、痛いところへ勝手に舌がいって、つつくから余計に痛くなる。じっとしてたら良いのに、刺激を与えるから、またそれもつつきたおす。というような案配になりますな。
 これさえ何とかなれば、これさえ、これさえという思いになるんでありますが、よう考えてみたら、他に良いところがなんぼでもある。お礼申さねばならんところが、なんぼでもある。そのお礼申さねばなんらんこと、一つもお礼申さんと、その辛いことばっかり、これやこれや、ばっかりつつきたおすから、余計に痛いところ腫れていきよる。
 うまいこといっているのは、当たり前であって、そこは何とも思わんと、辛いことばっかりつつきたおすから、うまく行ってることまでも、おかしなことになってくる。
 難波教会初代近藤藤守先生のお歌の中に、「喜びに喜ぶ心みそなわし導き給ふ金光の神」というお歌がある。また、教祖様のご事歴をみさせてもうても、「その方はどっちまわっても、良い方にとってくれるなあ。喜びにとってくれるな」と神様がお礼申して、喜んでおられるところがある。
 我々はその反対に、お礼申すことはほとんど無い。愚痴不足ばっかり、あるいは辛さの方ばっかり、言わしてもろてる。辛いことは辛いこととして、お願いをさせてもうて行くと同時に、お礼を申さないかんこと探さしてもらう。これが徳になる。
 よくお徳を頂く、神様のお徳を頂くいう言葉がありますけど、徳はどうして頂けるんですかと。別に教祖様は水を浴びろとか、火を踏めとか、断食せよとか、そんなことおっしゃっておられない。そういう徳とは違う。徳を頂くということは、喜び上手にならしてもろうていく、お礼上手にならしてもろうていく、お礼を探させて頂けることが出来る。これが徳ということ。お徳頂くということはそういうことなんですな。


 昔は母親がおはぎとかよく作ったものじゃ。もうすぐ天神祭りや。天神祭りになったら、母親がおはぎよう作ってくれて、「これちょっと誰々さんとこ持っていったげて」言うてお皿に三つでも、四つでも盛ってね。それで持っていく。そうしたら、もろたおばちゃんが、「まあうれしいわ。ありがたいわ。」言うておはぎ食べてくれる。
 お皿返しに来たとき、タオルの一枚でも持って来はる。「まあ、奥さんおいしかった」言うてくれる。本当におしいかどうかわからへん。けれども、「まあ…」。時には、塩と砂糖と間違えてほり込んだこともあるわな。それやのに「まあ、おいしかったわ」とは、ほんまかいな。ええ加減なこと言いなはんなということになるかわからん。
 何がおいしかたっんかいうたら、その行為。母親がおばちゃん所におはぎ持っていたげ。という行為がおいしかったんやな。おはぎは、塩と砂糖間違えたらあんわいな。ひとつもうまくないわ。そやけど、その行為がおいしかったやな。そうしてみると、また次も持っていてあげようという気持ちになるわな。次も、また次もおはぎ作ったら、持っていってあげよう。何々が出来たら、また持っていてあげよう。
 ところが「この暑いのに、こんなおはぎなんか持ってきて、誰が食いまんねん」。そんなところ誰も持って行けへんわ。ブツブツ、ブツブツ言うところには、誰も持って行かへん。徳というものはそういうものや。喜び上手のところには、物が集まってくる。人が集まってくる。しかし、生きる上では色々な事はある。色々な事はあるんじゃけれども、その中で喜び上手にならしてもらう。信心の稽古というものは、喜び上手にならしてもろうて行く、お礼上手にならしてもろうて行く。辛いことは、辛い、生きる中に辛いことはたくさんある。それはそれでお願いをしつつ、今日は何を喜ばしてもらおうか、何にお礼申させてもらおうか。いうことですね。


 仏教の逸話にあったと思うんですが。おばあさんに二人の娘がおった。一人の娘はわらじ屋さんに嫁いだ。もう一人は、傘屋さんに嫁いだんやな。そうしたらお天気をみて、雨が降ってると「はあ、かわいそうにな、わらじ屋へ行った子は、今日はわらじが売れんで、かわいそうになあ」言うてブツブツ…。泣きたおすの。
 お天気の日になったら「傘屋の娘がかわいそうになあ」言うて泣きたおすの。それを聞いたお坊さんが「反対や」言うてな。「今日は雨が降ったから、傘屋の娘、有り難うございますとお礼申すんや。今日はお天気になったら、わらじ屋の娘、有り難うございますと…」そうは言うけれども、不都合になった方の娘がかわいそうや…。
 これは親心やな。まさに親心というものはそういうものや。お坊さんの言われる通り、その通りなんですが、雨が降ったら傘屋の娘のことお礼申せ。お天気になったら、わらじ屋の娘のことお礼申せ。とお坊さんがおっしゃった。しかし、親というものは、反対になるものや。雨が降ったら、わらじ屋の娘がかわいそう。お天気になったら、傘屋の娘がかわいそう。これが親心なの。その親心をして、お天気の時に傘屋の娘のことをお願いしつつ、わらじ屋の娘のことをお礼申して行く。これが大事や。お坊さん言われてることもおおてるんやけど、本当の親心はなかなか解りにくい。他人事と思て。その通りだと思う。
 親心というものは、今困ってる方の子供のことを気に掛かってくる。なかなかお礼申されない。それが親心というもの。がしかし、そこをもう一歩進ましてもろて、不都合になる片一方の娘のことをお願いしつつ、もう一方の娘のことをお礼申すという、そこに神様が働く余地が生まれてくる。愚痴だけでは、心配だけでは、神様が働く余地が生まれてこない。
 神様が働く余地、神様のおかげを頂いていく余地がある。大事なことですね。そうなると、神様がお働きくだされる。それを「お徳」という。辛いことは数々ある。その中にお礼を申していく稽古をさせしてもうていくいうことが大切なことであろうかと思います。有り難うございました。
(平成十年七月十一日)