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かわいいと思う心

 「烏をおとりにしてかすみ網で雀を捕っていました。かわいそうなことをと思いました。」と申しあげたら、金光様は、「かわいいと思う心が、そのまま神である。それが神である。」と仰せられた。 (『天地は語る』三〇)

 今日のみ教えは、難波教会初代近藤藤守先生が教祖様の元へご参拝なされた時に頂かれたみ教えであります。歩いて参拝するか、船で参拝するかという時代でありましても、月に二回、三回と、ご参拝になっておられる。教祖様の元へ参拝なされて色々のみ教えを頂かれております。
 この時も、ご参拝になられましたら、道中で、烏をおとりにかすみ網で雀を捕っておる。そういう光景を見た。「ああ、かわいそうになあ。」それをそのまま教祖様の元にお参りなされて、「人間はかわいそうなことをします。」ということをおっしゃった。すると、教祖様はそのかわいそうになあと思う心が神様の心じゃ、神心じゃ。神様は人間に対していつも、このかわいそうになあという心をお持ちである。人間もまた、同じように、かわいそうになあという心が起こってくる。それが、神様が入って下さっておるからなんじゃと、そのかわいそうになあという思いを常に出すようになあ。とそれを書き留めて残してくだされたのが今日のみ教えであります。


 現代人にも皆、気の毒な人を見たら、「ああかわいそうになあ、お年寄りが荷物持ってたら、ああかわいそうになあ、荷物持って上げようかいな。身体の不自由な人見たら、ああかわいそうにな」と皆思う。それは昔の人も、今の人もその思いはみんな同じなんですが、その次がどうも違う。
 それは、戦後教育の個人主義というもの。いい意味でも悪い意味でも個人主義で戦後五十年も教育を親から子、孫へと三世代に渡って個人主義というものが伝わってきた。だから、「気の毒になあ」とふっと思う。しかし「あの人はあの人や」プツンとそこで切ってしまう。「気の毒になあ」とそこまでは皆思う。ちょっと待ち、そやけどあの人はあの人や。人にいらんことせんほうがええわいな。せっかくの「気の毒になあ」の心がシューッと自分の中に入ってしまう。
 今日のこのお話でも、かすみ網で雀を捕っておる、それを見てかわいそうになあと思う。藤守先生の性格やったら、「雀、放したって、そのお金払うわ。私がお金払うからその雀放してやって」そう言われたかもしれん。そこの所は載ってないからわからないですけれども、おそらく藤守先生は雀を放しはったと思う。雀は喜んで大空へ舞い上がりますわな。ええことさしてもろたと藤守先生は思う。
 現代人はどう思うかと言うと、「放したかてすぐ捕りよるわ。そんなものすぐその場で捕りよるわ。十羽、二十羽逃がしたかて、どうもならんわいな。あの人はそれで飯くってるんやから、商売してはんのやから」、ヒューッとそのところへ思いがいってしまう。そうすると、先ほどのかわいそうになあという思いがどこかに消えてしまいますんじゃな。
 そう、確かに雀捕っている人も、職業であって、雀はかわいそうだけれども、それも職業や。食べて行かねばならん。その通り、理屈は全部おうてはんの。しかし、信心というのは、神様と自分との関係なんですね。ここを皆間違う。神様と自分との関係を信心という。その雀を捕っておるその人との関係とは違う。信心というのは神様と自分との関係。その結果「十羽、二十羽逃がしても、またすぐ捕られるわいな」というのは人間心の考え。たとえ十羽であろうが、また多くの雀がおっても、今、この十羽を助けてあげたいなあ。そういう心が神様と自分との関わりなの。


 地球上に六十億という人間が生活させて頂いている。そしたら、一人や二人助けたかて、六十億もおりまんねん。一人や二人死んだり、助けたかて、どうてことあらへん。六十億もいてるんやから。ということになって、その六十億分の一にされたらどうなります。「ちょっと待ってえな」と言いたなる。六十億の人間がいてるんやから、一人や二人助けたかてどうってことないや。となると「六十億分の一にせんといて」「私は私や」。
 そう、神様は、六十億分の一として、私たちを見ておられるんじゃなしに、どこまでも、一人の神の氏子として、どうぞおかげを受けてくれと、常にかわいそうになあ、という思いを私たちにかけて下されている。その神心を頂かしてもろうた時に、理屈は色々あるか知らんけれども、神様と自分との関係。かわいそうにと思う心を現していく、そこが、大事なことである。
 すぐ計算が先にたってしもて、我々六十億分の一にされたらどうでしょう。それが一番顕著に出るのが、戦争です。百万人の軍勢で一万人死んだ。まだ大丈夫だ。「おおちょっと待ってくれ」それは人を物として扱うからね。そいうことですね。信心というのは神様と自分の関係。六十億分の一の人間ではなしに、かけがえのない神の氏子として見て下さっている。そういうところでかわいそうになあと思える心。理屈はちょっと置いて、それを神様へ願うていくこと。また、それを実行させて頂きたいものです。

(平成十年七月五日)


神の心 親の心

 人間がおかげを受けてくれなければ、神も金光大神もうれしくない。人間がおかげを受けないで苦しんでいるようでは、神の役目が立たない。人間が立ち行かなければ、神も金光大神も立ち行かない。 (『天地は語る』三一)

不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。(『天地は語る』三四)

 御理解には、今日のように神の心、親の心を説いて下さっているものがるるあります。こういう御理解を頂いた時に自分自身が親に対してどうであったかということと、今度また逆に子供がどうであるかという、二通りの見方がある。
 私は、小さいときから親の言うことを聞いて、小学校一年生からお装束をつけさせてもろうて、御用さしてもろてる。そやから自分自身は、大変に親孝行であったと思う。ところが母が亡くなって、しばらくした時に、母と同じような年代のご信者さんが、「はあ、亡くなられた親奥様も、若先生には苦労されましたいうておられた」このようなことを言われてビックリしてしもうて…。自分が親孝行のつもりやったけれども、ところが何のことはない、親から見たら困った子じゃと。難儀な子じゃと。というようなところがある。
 自分では親孝行の子じゃ、親孝行の子じゃ。私見たいな親孝行の子はあるかいなと思っておった。ところが親の目から見たら、なかなかそうはない、違うみたいですね。それを時々思い出す。


 どこが親不孝やったんかいな、とこう思う。それが段々と親にならしてもうてきて解るところがある。
 よく昔の言葉に「這えば立て、立てば歩めと親心、わが身に迫る老いも忘れて」と、這えば立て立てば歩めと、親が子供にかける願いは、これでええというはあれへんというこっちゃ。もっともっと、這うことが出来たら立ってくれ。立つことが出来たら歩んでくれと。そういう願いが親が子供にかける願いの中にある。それが子供の方が親の願いを受けきれんと。まあこの辺でとか。あるいは色々なことに反発をしたりとか。いうことになりやすい。信心も同じことで、これさえおかげ頂いたらそれでええわ。それで止まってしまうんですね。親神様の方はおかげを受けてくれねばいかんのだけれども、もう一段進んでくれ、これも解ってくれ、あれも解ってくれとこのように願いをかけておられる。
 その端的に現れているのが、教祖様の御神号で現れてる。下葉の氏子から一乃弟子、文治大明神と、次々と教祖様の御神号が教祖様のご信心に応じてずんずん、ずんずんと上がる。そういう意味で教祖様は一生が修行中じゃと。これでええということはない。それはなぜかというと、親様の親神様の願いを受けてゆこうとするので、そのようになっておる。これがあいよかけよというもの。あいよかけよとはただ単に、共生とかそんな程度の問題ではなしに、親の願いの中に子供が生き、子供の命の中に親が生きる、神様の願いの中に信心する氏子が生きる、また氏子の中に人間の中に神様が入ってくださる。そいういうものである。
 共生とか、あいよかけよとかいうことが、理屈の右と左と両方ともちゃんと行きますように、というような程度のことではなしに、今日頂いた御理解のように、氏子がおかげを落としては神は喜ばぬ。おかげを受けてくれなければどうもならんのやと。不信心者ほど神はかわいいんじゃと。そういう神様の命の叫びというものがあるんですなあ。そこのところを解らしてもらうご信心。神の願いに生きる親の願いに生きる。そうしたら自分が縛られているように思う。そうじゃない、その願いに生きたときに、すごい世界が生まれて来るもんじゃと思います。有り難うございました。

(平成十年七月六日)


神様を放す代表選手

 よく、神に捨てられた捨てられたと言うが、神はめったに捨てはしない。みな、人間の方から神を捨てるのである。 (『天地は語る』三六)

 親は絶対に子を捨てませんわ。子供は親を捨てることはあってもな、「さいなら」いうてもな。もう「あのあんぽんたん」と思てもな。「何やっとんじゃ」思てもな。願ごうてる。「どうぞ助かってくれ」と思う。ところが、子供の方は、ちょっとうまいこといかへんかったら、「ウェーン」と泣くようなものですね。しかし親は、ずっと不信心者ほど神はかわいいと願われたり、また時節を待っておかげを受けてくれと願われたり、「どないしとんねんなあ」と、思って願ごうたりと、もうほんと「アホを見ようと思たら親を見よ」とよく言われたもので、そういうふうに親神様は本当に願ごうておられる。
 そういう中で人間の方が、神様の綱を切ってしまう。切り方も色々あるんだけれども、代表的な切り方を言うてみましょう。
 ごく簡単な例なんです。入試というのがありましょう。高校入試、大学入試。それで一生懸命えらいこっちゃ、入試がんばらなければと思う。そしてがんばる。それで、すべったとする。誰でも「ガクー」とくる。そこで、「ガクー」ときて「あかなんだー」で終わってしまう。あかなんだら、次に、益々におかげを受けていかねばならないのにね。
 「あかん」いうことは、今までやってきた勉強が「あかん」ということ。ちゃんとした勉強が出来なんだから、入試をすべったんや。これから一年浪人なら浪人をして、来年のこの春に受けさせてもらう。それにあたっていよいよ神様を杖にして、元にして、お力を頂きつつ、お導きを頂きつつ、次の一年どうぞ勉強させて頂きますようにと、こうならなあかんねん。
 ところが、「あかなんだー」で終わってしまう。この人、ずっと「あかなんだー」になるねん、気の毒に…。


 お商売も同じですねん。もうにわかに「先生ー」いうて飛び込んでくる。「手形が落ちます、落ちません」言うて。ぼちぼちこんな不景気になったら、こんな信者さん増えてきますわ。「えらいことでんねん」。叶わぬ時の神頼み。必死になる。神様も願われたこと一生懸命になるけれども、今までのような商売の仕方をしてたら、そらあかんわいなと。商売の仕方が改まらなあかんわな。お客さんに対すること、商品に対すること、お金の扱いのこと、様々なところを改まらんと。そこのツケが、今こう来ているんじゃと。一辺それ、ごわさんさしてもろて、新たにおかげ頂いてみい、とおっしゃっているかもわからん。ところがもう「えらいこっちゃ」ということで、商売人さんやったら無理もない、お尻から火ついて「えらいこっちゃ」と。そして、「あかなんだあ」「もうあかん」「バンザイー」。
 そう、それでええんかいうたらそうじゃない。それから、がんばらしてもらわねばならん。そこから向こうが大事やねん。しかし、そこから向こうのことがお願いできない。全部なく無ってしもうたように思うてしまう。そしたら、生きるのも止めなしゃあないがな。そこから向こうも生きてゆかねばならんのに。そこから向こうの方が大事なのがかわからへん。それが解らないんです。


 これが、代表的な神様を放す人たち。今までずっと見てまして、大きな問題が起こってきた、それがうまいこと行かなんだ。それがもうあかんで、全部何もかも無くなってしまうように思てしまうんやな。もうあかんけれども、生きているんや。
 もうあく。これまでやってきたことの、ご無礼お粗末から、自分の得手勝手のことから、その結果があかんようになったんでしょうが。自分の得手勝手のことが、もうあかんを作ってきたんや。これから信心して、もうあくような、出来るような中身にならしてもうらうと、大きくおかげを頂いていくのだけれども、もうあかんで、それで全部何もかも、パーになってしもたような思いになってしまうんやね。
 それは今までの自分の生きざまのことが、結果に現れてる。にわかに神頼みしても、長年、得手勝手してきたことが、そこに結果として現れる。勉強なら勉強、入試をすべる。お商売は、バンザイするという結果が出てくる。そうしたら、バンザイで終わりなんか、すべったら終わりなんか、そうじゃない、それなるがゆえにこれから、新たなこととして、どうさしてもうろうて行かねばならないのか。これが信心しておかげを受けていく一番大事なところです。これが「神の綱が切れたというが、神は切らぬ。氏子から切るなよ」とおっしゃる大事なところなんですな。ここのところが案外解ってない、終わってしまうように思う、パーになってしまうと思う。それでも命を頂いている、そこから、生きてゆかねばならない。次の子や孫、曾孫の代へずっと助からねばならん。そこのところ、腹の入れどころが案外解らずに「神は切らぬ。氏子から切る」の代表選手がこのようですな。有り難うございました。

(平成十年七月八日)